親鸞仏教センター

親鸞仏教センター

The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

公開講座画像

親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 親鸞の視点には、いつも自分を自分のへそのあたりから見るようなところがある。決して頭の上から見下ろすことをしない。かといって、自分の外部から突き放して見るのでもない。内臓の中にあたかも内部を照らす鏡を置くように、じっくりと自分を見つめていくのである。その眼で同時代の人間のありさまを見据え、その鏡で過去・未来・現在の濁世(じょくせ)の本質を見抜いていくのである。

 私たちの生活している場所を、「濁世」という。その濁りは、工場排水がきれいな川を汚しているようなことではない。人間の生活の一部からこの環境を汚すこともある、というのではない。その濁りの本質は、自分のへそからみた、自分自身の濁りと同じ質であるというのである。

 普通、私たちはいつも自分自身のことはさておいて、「この世はひどく汚い」と感じ、他人には「ひどいやつだ」と思い、したがって、「この人間世界がだめなのだ」と批判するのである。ところが、親鸞という人は、そういうふうに感じたり見たりしている眼を、自分のへそのあたりに据え付けてくるのである。頭の上から人生を見下ろし、他人を批判するのでなく、へそのあたりから見ている自分自身と世界とを重ね合わせて、全体に響いてくるような真理からの呼びかけを、じっと聞いていくのである。

 「眼に聴覚を重ねるのだ」といってもよいかもしれない。眼で見るということは、眼の性質上、自分の外のものや事象を見ていくことである。眼は眼自身を見ることはできない。眼で世界を見ていくのが、人間の普通のものの見方である。それを先程は、頭の上から見下ろすといったのである。さらにいうなら、自分の眼には、生まれてこのかた、自分の経験によって蓄積された色づけがある。その色づけのぐあいも、自分の眼からは見えない。いうならば、サングラスをかけてものを見ているとき、サングラスの色を自分で気づくことができないようなものである。その色の濁りを感知するような感覚を、たとえて聴覚というのである。

(2003年6月1日)

最近の投稿を読む

FvrHcwzaMAIvoM-
第255回「存在の故郷」⑩
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第255回「存在の故郷」⑩  阿弥陀の本願の中に、「必至滅度の願」(『教行信証』「証巻」、『真宗聖典』〔以下『聖典』〕初版280頁、第二版319頁。親鸞は『無量寿経』の異訳『無量寿如来会』により「証大涅槃の願」〔同...
FvrHcwzaMAIvoM-
第254回「存在の故郷」⑨
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第254回「存在の故郷」⑨  衆生の本来性である「一如」・「大涅槃」は、釈尊の体験における「無我」を表現したことに相違ない。その無我が衆生の本来有るべきあり方ということである。しかしそのあり方を求める衆生は、その意...
FvrHcwzaMAIvoM-
第253回「存在の故郷」⑧
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第253回「存在の故郷」⑧  この難信の課題が起こってきたのは、仏陀が衆生を無我の菩提に導こうとするそのとき、生きている釈尊を人間の模範として見ている衆生の眼に根本的な誤解があったからではないか。釈尊が入滅せんとす...

テーマ別アーカイブ