親鸞仏教センター所長
本多 弘之
(HONDA Hiroyuki)
親鸞の視点には、いつも自分を自分のへそのあたりから見るようなところがある。決して頭の上から見下ろすことをしない。かといって、自分の外部から突き放して見るのでもない。内臓の中にあたかも内部を照らす鏡を置くように、じっくりと自分を見つめていくのである。その眼で同時代の人間のありさまを見据え、その鏡で過去・未来・現在の濁世(じょくせ)の本質を見抜いていくのである。
私たちの生活している場所を、「濁世」という。その濁りは、工場排水がきれいな川を汚しているようなことではない。人間の生活の一部からこの環境を汚すこともある、というのではない。その濁りの本質は、自分のへそからみた、自分自身の濁りと同じ質であるというのである。
普通、私たちはいつも自分自身のことはさておいて、「この世はひどく汚い」と感じ、他人には「ひどいやつだ」と思い、したがって、「この人間世界がだめなのだ」と批判するのである。ところが、親鸞という人は、そういうふうに感じたり見たりしている眼を、自分のへそのあたりに据え付けてくるのである。頭の上から人生を見下ろし、他人を批判するのでなく、へそのあたりから見ている自分自身と世界とを重ね合わせて、全体に響いてくるような真理からの呼びかけを、じっと聞いていくのである。
「眼に聴覚を重ねるのだ」といってもよいかもしれない。眼で見るということは、眼の性質上、自分の外のものや事象を見ていくことである。眼は眼自身を見ることはできない。眼で世界を見ていくのが、人間の普通のものの見方である。それを先程は、頭の上から見下ろすといったのである。さらにいうなら、自分の眼には、生まれてこのかた、自分の経験によって蓄積された色づけがある。その色づけのぐあいも、自分の眼からは見えない。いうならば、サングラスをかけてものを見ているとき、サングラスの色を自分で気づくことができないようなものである。その色の濁りを感知するような感覚を、たとえて聴覚というのである。
(2003年6月1日)