親鸞仏教センター

親鸞仏教センター

The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

親鸞仏教センター

The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

公開講座画像

親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 精神世界のことがブームなのだそうである。その背景をすこし考えてみたい。

 現在の情況の一つに、次のようなことがある。物質の性質やその研究・応用がかなり突き詰められて、入り口が違っているのに、ほとんど同じ対象が問題になるようになっている。たとえば、生物学や植物学と動物学・医学・薬学ということなら、数十年前までは全く異なる対象が問題になっていたであろう。ところが現在では、それらの先端の課題は、皆ミクロの遺伝子レベルのことが関心になってきているらしい。蛋白質の基本になる分子が解明されたのは、もう30年も以前である。そのつながりの構造の解明に、さまざまな学問分野が一斉にとりかかって、つい最近、とうとう人間の遺伝子の構造が、完全に解明されたというのである。

 一方、天文学や地球物理学の分野では、宇宙の始まりや現在までの時間というようなことが、ほぼ完全に解析されたとも言われている。 そういうように、われわれを取り巻く自然界やわれわれ自身を構成し、成立させている時間・空間のあり様や物質的な構成が、判然と解明され、記述されているという。ところが、現に生活しているわれわれ自身は、生まれて生きて死んでいく有限な存在として、自分自身のことも自分を取り巻く自然界や人間社会のことも、よくわかっているわけではない。

 確かに、科学技術や工業製品のおかげで、生活の具体的な内容は便利になり、皆が平等に情報を共有できるようになり、世界中の出来事を居ながらにして知ることもできるようになった。けれども、その生活の具体的な事実の内実を少し掘り下げてみると、見聞きするものはオーディオ・ビジュアルの機材をとおしたものであり、味には化学調味料が添加され、香料も化学合成され、明るさは電灯により、空調も乗り物もというように、ほとんどあらゆるものが、人間の技術による変換を経たものであることがわかる。

 ふと生きている自己の内容について、これは実像なのか虚像なのかというような不安感にもよおされたとき、現代情況を生きるわれわれは、おそらく底なしのバーチャル・リアリティーの宇宙に漂っていることを感ずるであろう。そうしてみると、このごろの精神世界への好奇心とは、古代人の「神通力(じんづうりき)」への要求と重なるものがあるのではなかろうか、と感じられてくるのである。

(2003年9月1日)

最近の投稿を読む

FvrHcwzaMAIvoM-
第257回「存在の故郷」⑫
第257回「存在の故郷」⑫  人間は合理的な生活を追求してきたのであるが、現代のいわゆる先進国の人びとは、はたして生きることに満足が与えられているのであろうか。忙しく情報に振り回されているのが実態なのではないか。そして孤独と憂愁にとりつかれ、不安の生活に沈んでいくことが多いのではないか。  現代社会はこの方向に進展し、資本主義社会において功利性を追い求め、合理性を追求する結果、人間の本来性から遠ざかっていくように思われてならない。その合理性の追求は、真理の基準を人間の理性に置いているのだが、その方向が遂にAIをも生み出し、人間自身の存在の意味すら危ういものとされてきているのである。...
FvrHcwzaMAIvoM-
第256回「存在の故郷」⑪
第256回「存在の故郷」⑪  曇鸞が気づいたことは、第十一願のみではなかった。第十八願の成就を意味づけるために、第二十二願をも加えているのである。第十八願に第十一願・第二十二願を加えることによって、浄土への往生を得た衆生に大乗菩薩道の完成たる仏の位を与え、人間存在の完全満足たる大乗仏教の大涅槃(阿耨多羅三藐三菩提)の成就を与えるのだと、明らかにされたのであった。...
FvrHcwzaMAIvoM-
第255回「存在の故郷」⑩
第255回「存在の故郷」⑩  阿弥陀の本願の中に、「必至滅度の願」(『教行信証』「証巻」、『真宗聖典』〔以下『聖典』〕初版280頁、第二版319頁。親鸞は『無量寿経』の異訳『無量寿如来会』により「証大涅槃の願」〔同前〕とも呼んでいる)が語られている。曇鸞はこの願が、浄土の利益を表す願であると気づいた。それは、曇鸞が仏道の究極目的を見定めながら、自身の挫折体験を通して無量寿経の本願を見直したとき、当然出会うべき事柄であったと言えよう。実は曇鸞がこのことを表現したのは、天親菩薩の『浄土論』解義分の結びにある「速やかに阿耨多羅三藐三菩提(無上菩提)を成就することを得る」(『大正新修大蔵経』第36巻、233頁a。原漢文)という言葉を解釈するためであった。...

テーマ別アーカイブ