親鸞仏教センター所長
本多 弘之
(HONDA Hiroyuki)
先日、ある弁護士の方の一周忌のご法要の席で、友人の方がお話をされた。それはおおむね次のようなことであった。
良い弁護士の条件には、三つの「Y」がある。それは柔らかさと、優しさと、勇気である。柔らかさとは、発想の柔軟性(じゅうなんせい)であるが、特に相手の立場になってものを考えるということであろう。自分の正当性のみしか見えないようでは、かたくなでもろい考えしかできない。優しさとは、事実を丁寧に先入観をできるだけ交えずに、起こった事情を見ることであろう。そして、決断に際しては、勇気をもって立つことである。この三つを兼ね備えた場合に、良い弁護士と言われるのだ。亡き彼は、これを満たした立派な弁護士であった、と。
この三つの条件は、弁護士の活動のみではなく、およそ人間関係にとってたいへん大切な事柄であろう。この第一の「柔軟性」ということを、小生の知り合いのお医者さんの方も、医療行為に当たる者の大事な心構えの一つとして言われていた。症状を正確に把握するためには、先入観を排して、事実を総合的に見抜く必要があり、個体の違いを敏感に感じ取りながら、事態を判断しなければならない。その場合、柔軟(vulnerable)であることが大事だ、と。
仏教でも、「柔軟心(にゅうなんしん)」の大切さを教えている。ということは、われわれはいつの間にか、自分の考えや発想にかたくなな殻をつけてしまって、そのことを自分でなかなか気づけないものであるということであろう。それに気づくための一つの方法が、相手の立場からものを考えてみるということなのであろう。しかしこれは、実際にはたいへん困難なことである。われわれが自己を愚かな凡夫(ぼんぶ)と自覚し、仏智を、人間を超えた平等の大悲と仰いで、如来のおおいなる願心がいつもわれらをみそなわしていると信じていると、「柔和忍辱(にゅうわにんにく)のこころもいでくべし」と『歎異抄』(第16条)がいうのは、自分から相手の立場に立つというのではなくとも、他(如来)の眼の前に自己を感じているということが、少しずつ人間の自己中心的な固さを柔らかくしてくるのだろう、とも感じられることである。
(2004年2月1日)