親鸞仏教センター所長
本多 弘之
(HONDA Hiroyuki)
遠いところへの深い要求は、はっきり自分の意識にそれとして出てくることは、ほとんどない。けれど、この深みからの痛覚の刺激のようなものは、日常生活のいたるところで、ちくちくと感じられている。この深みからのささやきに耳を貸す暇(いとま)が、現代の私たちの生活には、なかなかないのではなかろうか。別の言葉で言うなら、普段は目に見えたり、耳に聞こえたりする意識の上層部の世界に、耳目(じもく)を奪われていて、深層からの、人間の本来への呼びかけを感知するゆとりがないとも言えるだろう。
親鸞が如来(にょらい)の呼びかけを、「欲生(よくしょう:生まれんとおもえ)」と語る『無量寿経』に、生涯をかけて聞き耳を立てていったのは、言葉の奥に、人間の深みからくるこの鈍痛のような響きを感じ取ったからであろう。人間の生きる状況も異なり、思想的な問題意識も異なる人間のいとなみが、何百年たっても、新鮮に躍動するたましいとして感じられるのはなぜか。
そしてその躍動は、“三千年昔の釈尊にさかのぼり、さらに無始のときより相続してきた人類の根底にまで遡源(さくげん)していくことができることを、法藏菩薩(ほうぞうぼさつの)物語として語り伝えてきたのが、『無量寿経』である”と、親鸞はうなずいていったのではなかろうか。
この静かな、かすかな命の根底からささやきかけるような要求は、気になり始めると、なんとかはっきり聞き当てたいと思うようになるのだが、すでに言い当てられている言葉で探り当てようとしても、手で水を汲(く)むときのように、大事な部分がほとんどすり落ちてしまうような感じがするものである。
それで、閑静な人気の少ない場所や、俗世間を離れた場所で、聞き当てようと言う努力が説得力をもってきたのであろう。しかし、根源からの命の刺激は、そういう相対的な静けさや、あり余る時間があるなら取り出せるというようなものではない。その気になるなら、いつでもどこでも誰にでもはたらいていて、どういう状況であっても、それを離れることがないものなのである。私たちには、それが一番遠くて、深いささやきとしてしか感じられないものなのであろう。
(2004年8月1日)