親鸞仏教センター

親鸞仏教センター

The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

親鸞仏教センター

The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

公開講座画像

親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 生命の根源からくる、ささやきのような「呼びかけ」ということを先月書いてみた。自分としては、すこし表現が象徴的すぎるかなとも感じたのであるが、「宗教的要求」を表現しようとすると、若干なりとも象徴的にならざるを得ないのである。これを、もうすこし近い感覚で表現するなら、生命力の根源にある大自然の力とも言えるかもしれない。

 あらゆる生命現象の根底にはたらいている根本的な力とでもいうべきもの、物質的な分子の連鎖からなぜこういう生命力が出てきたのかは、おそらく今後も解明することはできないのではないか。この大自然が生み出した生命現象のいとなみの一部に、人間といういのちが生まれ、その末端に、いま「自分」という存在がここに与えられている。一個の存在として生まれ落ちてあることも、その存在を取り巻き、その存在に先立って連綿として相続してきた生命の歴史も、いわばはるかに自己を超えた大自然のはたらきであろう。

 そういう背景によって自己が与えられ、支えられているにもかかわらず、私たち人間は、自分のいのちは自分の「所有」に属するものとして、「自我」の思いの範囲にあるものとして、感覚する。それを疑うということすらしない。それを「自力の妄念(もうねん)」と気づいたのが、「他力の教え」の出発点だったのではなかろうか。そして、自己のいのちを、自分の所有と感ずることを立場にした場合に避けることができない難関を突破したのではないか。

 もし、妄念に気づかず、自分の所有として自己を感ずる「自力」の場合には、自己の中にある「弱点」「劣悪性」「愚昧性」「卑怯さ」、さらには自己のいのちの無意味性というようなものを、なんとか覆い隠して自己を納得しようとするしかないのであろう。しかし所詮、根本的な自己認識が誤っているのであるから、どこかで虚偽を感じざるを得ない。事実、そうではなかったのだ。根源にはたらくものは、大自然の絶対信頼とでも言うべきおおいなる背景の力であり、そこから見直すなら、あらゆる欠陥も自己を具体的に与え、支えているいのちそれ自身として、手を合わせて、頂ける道が見えてくるということなのではなかろうか。

(2004年9月1日)

最近の投稿を読む

FvrHcwzaMAIvoM-
第257回「存在の故郷」⑫
第257回「存在の故郷」⑫  人間は合理的な生活を追求してきたのであるが、現代のいわゆる先進国の人びとは、はたして生きることに満足が与えられているのであろうか。忙しく情報に振り回されているのが実態なのではないか。そして孤独と憂愁にとりつかれ、不安の生活に沈んでいくことが多いのではないか。  現代社会はこの方向に進展し、資本主義社会において功利性を追い求め、合理性を追求する結果、人間の本来性から遠ざかっていくように思われてならない。その合理性の追求は、真理の基準を人間の理性に置いているのだが、その方向が遂にAIをも生み出し、人間自身の存在の意味すら危ういものとされてきているのである。...
FvrHcwzaMAIvoM-
第256回「存在の故郷」⑪
第256回「存在の故郷」⑪  曇鸞が気づいたことは、第十一願のみではなかった。第十八願の成就を意味づけるために、第二十二願をも加えているのである。第十八願に第十一願・第二十二願を加えることによって、浄土への往生を得た衆生に大乗菩薩道の完成たる仏の位を与え、人間存在の完全満足たる大乗仏教の大涅槃(阿耨多羅三藐三菩提)の成就を与えるのだと、明らかにされたのであった。...
FvrHcwzaMAIvoM-
第255回「存在の故郷」⑩
第255回「存在の故郷」⑩  阿弥陀の本願の中に、「必至滅度の願」(『教行信証』「証巻」、『真宗聖典』〔以下『聖典』〕初版280頁、第二版319頁。親鸞は『無量寿経』の異訳『無量寿如来会』により「証大涅槃の願」〔同前〕とも呼んでいる)が語られている。曇鸞はこの願が、浄土の利益を表す願であると気づいた。それは、曇鸞が仏道の究極目的を見定めながら、自身の挫折体験を通して無量寿経の本願を見直したとき、当然出会うべき事柄であったと言えよう。実は曇鸞がこのことを表現したのは、天親菩薩の『浄土論』解義分の結びにある「速やかに阿耨多羅三藐三菩提(無上菩提)を成就することを得る」(『大正新修大蔵経』第36巻、233頁a。原漢文)という言葉を解釈するためであった。...

テーマ別アーカイブ