親鸞仏教センター

親鸞仏教センター

The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

親鸞仏教センター

The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

公開講座画像

親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 願心(衆生を救済せずには、自己自身をも成就しない)ということは、永劫(ようごう)にはたらき続けて疲れることを知らない精神であろう。この形の無い願心が、愚かな衆生に接するための方便として、「名号(みょうごう)」という形を選び取る。その名号の意味の中には、したがって浄土として荘厳(しょうごん)された願心の形のすべてを呑み尽くしている。だから、万善万行(まんぜんまんぎょう)を摂(せつ)しているといわれるのである。そのことを端的に示すために、親鸞は名号を「大行(だいぎょう)」であるといい、その意味を表して「この行(ぎょう)は、すなわちこれもろもろの善法(ぜんぽう)を摂し、もろもろの徳本(とくほん)を具(ぐ)せり。極速円満(ごくそくえんまん)す、真如一実(しんにょいちじつ)の功徳宝海(くどくほうかい)なり」(『教行信証』「行巻」、『真宗聖典』157頁)という。

 天親菩薩の『浄土論』の仏の功徳を荘厳する中に、「不虚作住持功徳(ふこさじゅうじくどく)」と名づけられたものがある。「観仏本願力(かんぶつほんがんりき) 遇無空過者(ぐむくかしゃ) 能令速満足(のうりょうそくまんぞく) 功徳大宝海(くどくだいほうかい)」(『真宗聖典』137頁)と詠(うた)われている一句である。この功徳を親鸞は、たびたび取り上げて注釈される。和讃にも「本願力にあいぬれば むなしくすぐるひとぞなき 功徳の宝海みちみちて 煩悩の濁水(じょくしい)へだてなし」(「高僧和讃」〈天親菩薩和讃〉、『真宗聖典』490頁)と讃(たた)えられている。

 この功徳の意味と、先の名号についての言葉とを照らし合わせてみると、親鸞が信心によって衆生が獲得する功徳を表そうとするところが少し見えてくるのではないか。すなわち、浄土として彼方(かなた)に表現する願心の意図は、名号として此方(こなた)に回向(えこう)してくるはたらきと別ではないのだ。この願心の意図は、願力としてはたらき続けていて、それに値遇するものに、たとい煩悩の濁水に沈没(ちんもつ)していようとも、その凡夫の身に功徳の宝海を注ぎ込まずにはおかないのだ、と。

 願心を場として荘厳する意志は、人間の言葉となって衆生の煩悩の濁水を転じ続けるのである。空間を突破し、時間を破って、苦悩の現場に願心が現れ出る形が名号だということであろう。それに気づくことなく苦悩に沈むわれらには、純粋清浄の願心は未来からの光明として、永劫に待ち続けるしかない。しかし、もし気づくなら、すでに兆載(ちょうさい)の昔より、彼岸からこの世に名号を通してはたらき続けていたのだ、とうなずけるということであろう。

(2006年8月1日)

最近の投稿を読む

FvrHcwzaMAIvoM-
第257回「存在の故郷」⑫
第257回「存在の故郷」⑫  人間は合理的な生活を追求してきたのであるが、現代のいわゆる先進国の人びとは、はたして生きることに満足が与えられているのであろうか。忙しく情報に振り回されているのが実態なのではないか。そして孤独と憂愁にとりつかれ、不安の生活に沈んでいくことが多いのではないか。  現代社会はこの方向に進展し、資本主義社会において功利性を追い求め、合理性を追求する結果、人間の本来性から遠ざかっていくように思われてならない。その合理性の追求は、真理の基準を人間の理性に置いているのだが、その方向が遂にAIをも生み出し、人間自身の存在の意味すら危ういものとされてきているのである。...
FvrHcwzaMAIvoM-
第256回「存在の故郷」⑪
第256回「存在の故郷」⑪  曇鸞が気づいたことは、第十一願のみではなかった。第十八願の成就を意味づけるために、第二十二願をも加えているのである。第十八願に第十一願・第二十二願を加えることによって、浄土への往生を得た衆生に大乗菩薩道の完成たる仏の位を与え、人間存在の完全満足たる大乗仏教の大涅槃(阿耨多羅三藐三菩提)の成就を与えるのだと、明らかにされたのであった。...
FvrHcwzaMAIvoM-
第255回「存在の故郷」⑩
第255回「存在の故郷」⑩  阿弥陀の本願の中に、「必至滅度の願」(『教行信証』「証巻」、『真宗聖典』〔以下『聖典』〕初版280頁、第二版319頁。親鸞は『無量寿経』の異訳『無量寿如来会』により「証大涅槃の願」〔同前〕とも呼んでいる)が語られている。曇鸞はこの願が、浄土の利益を表す願であると気づいた。それは、曇鸞が仏道の究極目的を見定めながら、自身の挫折体験を通して無量寿経の本願を見直したとき、当然出会うべき事柄であったと言えよう。実は曇鸞がこのことを表現したのは、天親菩薩の『浄土論』解義分の結びにある「速やかに阿耨多羅三藐三菩提(無上菩提)を成就することを得る」(『大正新修大蔵経』第36巻、233頁a。原漢文)という言葉を解釈するためであった。...

テーマ別アーカイブ