親鸞仏教センター

親鸞仏教センター

The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

公開講座画像

親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 「純粋未来」とは、法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)が一切衆生(いっさいしゅじょう)に大悲の願心(がんしん)を呼びかけるために、「真仏土(しんぶつど)」、すなわち「真実の仏身と仏土」を建立して、その「場所」からのはたらきを、現世の苦悩にあえぐ衆生に与えるときの「現実と大悲」の関係をあらわす時間的表現である。この関係を、次元の差違を超えて現実のほうに引っ張り込もうとすると、有限と無限の混乱を引き起こすので、有限な人生が終結して初めてこの関わりが充足する、と語りかけるしかない。それが、「浄土」は死後にしか関わりがもてない場所だ、と了解されてきた所以(ゆえん)であろう。この間のことを、もう少し考察させていただきたい。

 そもそも「浄土」は、第一に罪悪の衆生を摂取(せっしゅ)するための大悲の場である。そして、第二に愚(おろ)かなる衆生に仏法の救いを具体化するための場である。

 この第一の課題は、実は現実の一個の生存のもつ「宿業(しゅくごう)因縁」からの解放という問題にからんでいる。具体的な実存は、この一個の身体を厳粛に規定され、生きる状況をあたかも運命的に与えられて、投げ出されたごとくに存在するのである。その厳粛性の極(きわ)みは、『涅槃経(ねはんぎょう)』における釈尊の「阿闍世(あじゃせ)」に対する呼びかけの言葉に窺(うかが)うことができよう。仏陀が、「阿闍世は煩悩等を具足(ぐそく)せる者」なのである、と語りかけるのは、衆生の実存は必ず身動きならない限定を受けており、衆生としての生存には「煩悩(ぼんのう)」「罪業(ざいごう)」を逃れるすべがないことを見通しているのである。阿闍世だけが、たまたま父親を殺した罪悪人だということでなく、一切の衆生が、運命的に与えられてくる状況に翻弄(ほんろう)される、苦悩の実存である、ということである。この身動きならない有限の存在に、絶対の解放を与える場所が、光明無量の智慧界たる「浄土」なのである。つまり、無限の大悲がどのような罪悪の因縁に苦しむものをも、救い上げずにはおかないと、摂取のはたらきを恵む場所なのである。

 このことを端的に語るものが、『歎異抄』第三条の「善人(ぜんにん)なおもて往生をとぐ、いわんや悪人(あくにん)をや」(『真宗聖典』627頁)という、いわゆる「悪人正機(しょうき)」の表現である。この善悪は、一応相対的に語られるのだが、本当は一切の衆生は「悪人」、すなわち思うままに生存状況を生きるのでなく、状況に巻き込まれて「宿業」の因縁を生きている悲しき存在たるを自覚せよ、ということなのである。

(2007年6月1日)

最近の投稿を読む

FvrHcwzaMAIvoM-
第255回「存在の故郷」⑩
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第255回「存在の故郷」⑩  阿弥陀の本願の中に、「必至滅度の願」(『教行信証』「証巻」、『真宗聖典』〔以下『聖典』〕初版280頁、第二版319頁。親鸞は『無量寿経』の異訳『無量寿如来会』により「証大涅槃の願」〔同...
FvrHcwzaMAIvoM-
第254回「存在の故郷」⑨
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第254回「存在の故郷」⑨  衆生の本来性である「一如」・「大涅槃」は、釈尊の体験における「無我」を表現したことに相違ない。その無我が衆生の本来有るべきあり方ということである。しかしそのあり方を求める衆生は、その意...
FvrHcwzaMAIvoM-
第253回「存在の故郷」⑧
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第253回「存在の故郷」⑧  この難信の課題が起こってきたのは、仏陀が衆生を無我の菩提に導こうとするそのとき、生きている釈尊を人間の模範として見ている衆生の眼に根本的な誤解があったからではないか。釈尊が入滅せんとす...

テーマ別アーカイブ