親鸞仏教センター

親鸞仏教センター

The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

親鸞仏教センター

The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

公開講座画像

親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 「真実報土は、求めずして与えられる」と曽我量深はいう。しかし、これは何もせずに与えられる、という意味ではない。衆生の要求のごとくに与えられるものではない、というのであって、与えられるためには、必要不可欠の条件がある。それは、衆生が作り出すことを要求するのではなく、衆生自身の有限であることの徹底的な自覚、これが要求されているのである。無限のなかにあって、有限であることを自覚できていない、という構造、これを『歎異抄』は「自力作善(さぜん)のひと」(『真宗聖典』627頁)というのであるが、この構造を破って悪人でしかないという自覚、あるいはまったく無力であり、全面的に本願他力のなかにあるという自覚、この自覚において、「しらず、もとめざるに、功徳の大宝、そのみにみちみつ」(『一念多念文意』、『真宗聖典』544頁)という心眼を恵まれるのである。

 だから、浄土を場として自覚するとは、いわば見えざる無限の大用(だいゆう)、これは自分の意識としては知り得ないのであるが、向こうからは無碍(むげ)にはたらき続けている、このことを信知することなのである。これを、「正信偈」には「煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我(煩悩、眼〈まなこ〉障〈さ〉えて見たてまつらずといえども、大悲倦〈ものう〉きことなく、常に我〈われ〉を照したもう)」(『真宗聖典』207頁)というのである。大悲のはたらきたる本願は、浄土という広大な環境となって衆生を支えようとする。それは『浄土論』の主功徳(しゅくどく)にいわれるように、阿弥陀法王の善住持の力であり、無限なる大悲のはたらきであるから、それを信知する身に、十分に不朽薬のごとき力を与えて信心の身を守るというのである。

 この大悲のはたらきたる場所を、本願力から切り離して、いのちの向こうに表象した場を「方便化身土」というのではないか。だから、「求めて、得られない」ものなのである。「見ることができない」という事実から、自己の有限の自覚を徹底せずに、「得られない」から、死んだ後にきっとあるに相違ないと、「邪定(じゃじょう)」(よこしまに決める)か、「不定(ふじょう)」、つまり決めるわけにもいかずに不安なままに求め続けるか、ということになるのであろう。それに対する「無量光明土」は、直接に見ることができたというような神秘体験ではない。たすかるべき必然性を自己の能力に頼ることを捨てて、大自然の治癒力のごとき大悲願力に帰託するなら、本願力の必然として、向こうからはたらき続け、愚(おろ)かなるわれらにも摂取の光明として感受されてくるものだというのであろう。

(2007年9月1日)

最近の投稿を読む

FvrHcwzaMAIvoM-
第257回「存在の故郷」⑫
第257回「存在の故郷」⑫  人間は合理的な生活を追求してきたのであるが、現代のいわゆる先進国の人びとは、はたして生きることに満足が与えられているのであろうか。忙しく情報に振り回されているのが実態なのではないか。そして孤独と憂愁にとりつかれ、不安の生活に沈んでいくことが多いのではないか。  現代社会はこの方向に進展し、資本主義社会において功利性を追い求め、合理性を追求する結果、人間の本来性から遠ざかっていくように思われてならない。その合理性の追求は、真理の基準を人間の理性に置いているのだが、その方向が遂にAIをも生み出し、人間自身の存在の意味すら危ういものとされてきているのである。...
FvrHcwzaMAIvoM-
第256回「存在の故郷」⑪
第256回「存在の故郷」⑪  曇鸞が気づいたことは、第十一願のみではなかった。第十八願の成就を意味づけるために、第二十二願をも加えているのである。第十八願に第十一願・第二十二願を加えることによって、浄土への往生を得た衆生に大乗菩薩道の完成たる仏の位を与え、人間存在の完全満足たる大乗仏教の大涅槃(阿耨多羅三藐三菩提)の成就を与えるのだと、明らかにされたのであった。...
FvrHcwzaMAIvoM-
第255回「存在の故郷」⑩
第255回「存在の故郷」⑩  阿弥陀の本願の中に、「必至滅度の願」(『教行信証』「証巻」、『真宗聖典』〔以下『聖典』〕初版280頁、第二版319頁。親鸞は『無量寿経』の異訳『無量寿如来会』により「証大涅槃の願」〔同前〕とも呼んでいる)が語られている。曇鸞はこの願が、浄土の利益を表す願であると気づいた。それは、曇鸞が仏道の究極目的を見定めながら、自身の挫折体験を通して無量寿経の本願を見直したとき、当然出会うべき事柄であったと言えよう。実は曇鸞がこのことを表現したのは、天親菩薩の『浄土論』解義分の結びにある「速やかに阿耨多羅三藐三菩提(無上菩提)を成就することを得る」(『大正新修大蔵経』第36巻、233頁a。原漢文)という言葉を解釈するためであった。...

テーマ別アーカイブ