親鸞仏教センター所長
本多 弘之
(HONDA Hiroyuki)
場を自覚し「わきまえ」て、そこから表現が出てくるというところに、日本語の独自の言語表現がある、という井出祥子教授(社会言語学者、東北大学客員教授)のお話をいただいたのだが、この折りの研究会の内容の一端を『親鸞仏教センター通信』第27号に載せているのでご参照いただきたい。
「わきまえる」ということは、自己が現にどういう状況やどういう位置関係にあるかということを、表現に先立って理解していることを前提にして、表現がなされるということである。それを自己がいかなる場所に置かれているかを「わきまえ」てのうえでの言語表現であるというのである。西欧の言語は、そういう場の前提を考慮することなしに、自我が何をしたいのか、どういう行為をするのか、と発想するところから、文法も文脈も出てくるので、場所のこともいちいちについて言語化しないと状況が成り立たないのだという。
日本語のこの場所的な自覚ということは、「自己」のありようが常に自己が置かれている状況と切り離すことができない、という「自己認識」であることからくる。生きるということは、状況との対応なのであるから、当然といえば当然なのだが、とかく人間は「自我」を強く感じて状況と切り離された自我があると考えがちである。だから、こういう場所的自覚を前提にした言語表現の成り立ちには、長い歴史の歩みのなかで仏教の人間観からの影響があったのではないか、というのが、井出教授の指摘なのである。
特に近代の人間観は、「自我」になにか人間独自の意味内容があるかのごとき先入観から出発してきたところがあったのではないか。西欧的な人間観や言語表現を前提にして成り立ってきた近・現代の人間観を仏教から見直してみなければならないのではなかろうか。
仏教の人間観からするなら、「主語的我」は、自我の執着が「自己」を「自我」だと愛着して、変わらない実体のようなものを想定してしまっているのではないか。それならば、西田幾多郎の言葉を借りてみるなら、「述語的自己」とは、一体どういうことになるのであろうか。
(2008年9月1日)