親鸞仏教センター所長
本多 弘之
(HONDA Hiroyuki)
浄土は法蔵願心がはたらき続けている場である。場は、どのような場合でも、そこに生活する者との呼応によって、変化していく。法蔵願心の場は、物語としての法蔵因位の「兆載永劫(ちょうさいようこう)の修行」の場であり、苦悩の衆生に応じてどこまでも対応し続けようという「大悲の現行(げんぎょう)」のはたらく場であると思う。
このごろの葬儀での弔辞に、「静かにお眠りください」という言葉が必ずと言ってよいほど入っている。亡き人の行くべき場所は、寝室の集合場所のようなイメージがあるようである。私たちにとって、この苦悩の人生から救済されるということは、永久の寝室に入ることなのであろうか。生が死にいたることは、目覚めた状態から睡眠状態になることなのであろうか。たしかに死んだ肉体は動かない。それをそのままこの世に止めようとすると、ミイラにするほかないであろう。それは眠ったように反応のない屍(しかばね)である。
しかし、仏教では、私たちの生きているあり方を、煩悩に縛(しば)られて眠ったような状態だ、と教えている。暗闇のなかで本当のことが見えずに、「迷っている」のだ、と。だから、その状態から出て、新しい〈いのち〉のあり方に目覚めよ、と教えられているのである。この教えを聞いていくのが仏教徒としての人生態度であるなら、仏教の救いの場は、目覚めの場であるはずだし、本当に目覚めるということは、どういうことなのかを求める場でなければならないのではないか。だから、釈尊は死体に執着することを破るために、遺体を火葬にするように遺言したのではないか。
さらに言うなら、浄土教の教えは、法藏菩薩の願心をいただくことである。その願心を象徴的に表現している場が、阿弥陀の浄土である。この浄土の利益(りやく)とは、衆生を平等に成仏させたいという法蔵願心を実現するところにあるはずである。そのためには、苦悩の娑婆で眠った状態を脱出できない衆生をも、みな目覚めへの生活に立ち上がらせる場でなければならないであろう。つまり、あらゆる凡夫に、成仏への歩みの意欲を感得できるような場所を開くのでなければならない。そのことが、「必至滅度(ひっしめつど)の願」(『教行信証』「証巻」、『真宗聖典』279頁)と名づけられる『大無量寿経』第十一願の意味なのではなかろうか。
第十一願には「定聚(じょうじゅ)に住し必ず滅度にいたらねば」自分はさとりを開くまい、と誓っている。この定聚とは「必ず滅度に至る」、つまり「必ず成仏する」という確信を得た衆生ということである。大涅槃(だいねはん)まで歩み続ける存在ということなのである。
(2009年7月1日)