親鸞仏教センター

親鸞仏教センター

The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

親鸞仏教センター

The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

公開講座画像

親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 この世界に生存を与えられるということは、近くは両親の出遇いによって、子として誕生することである。その両親が出遇うということの背景には、両親のそれぞれの生存もまたその両親の親の出遇いがあって与えられるということがある。それをどこまでもたどっていくなら、「無始以来」といわれるような神話的時間の背景を、われわれの個の実存は与えられているということになる。「無始よりこのかた、乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染(えあくわぜん)にして」(『教行信証』、『真宗聖典』225頁)と親鸞が語る自覚には、かくのごとき自己の背景が付帯しているという感覚があるのであろう。

 その深い背景であるような時間を「竪に」超えるということは、この時間を過去や未来に延長するような方向を、その方向に添って「超越する」ということなのであろうか。だとすると、いわば、自分の時間感覚の延長でありながら、それを超越するということなのではないか。

 それに対して、「よこさま」に超えるということが、「本願力による」超越であるとは、そういう人間的感覚の延長とは異質の方向を示しているのであろう。我らの「罪悪生死の凡夫」としての世代を重ねた時間を超えてみても、またまた「生死流転」の身を受けるのであり、それを超える方向で、いのちの形としての身を受けることはできない。つまり、個として死んでみても、方向を転ずることはできない。そこに、まったく異なる方向からの、つまり「よこさま」の力がはたらくことによってのみ、生死を「よこさま」に超える方向があり得るのだというのが、「横超断四流(おうちょうだんしる)」(『真宗聖典』243頁参照)なのではないか。その「よこさま」の力が凡夫にはたらく場を、大悲の願力は「本願の報土」として呼びかけているのである。願力所成(しょじょう)の報土といわれる所以である。一切衆生を平等に助けたいという願が、「よこさま」の力の場を、一切の凡夫を場の力のなかで「機」として成長させ、仏者と成らせようとするのである。その場のはたらきを、本願力として現在に感受するなら、その時に神話的時間をも突破して、現在の一念に無始以来の「永劫」の時に匹敵する「兆載永劫(ちょうさいようごう)」の法藏菩薩の修行の恵みを賜るということが、「絶対不二の機」の自覚なのではないかと思うのである。

(2010年1月1日)

最近の投稿を読む

FvrHcwzaMAIvoM-
第257回「存在の故郷」⑫
第257回「存在の故郷」⑫  人間は合理的な生活を追求してきたのであるが、現代のいわゆる先進国の人びとは、はたして生きることに満足が与えられているのであろうか。忙しく情報に振り回されているのが実態なのではないか。そして孤独と憂愁にとりつかれ、不安の生活に沈んでいくことが多いのではないか。  現代社会はこの方向に進展し、資本主義社会において功利性を追い求め、合理性を追求する結果、人間の本来性から遠ざかっていくように思われてならない。その合理性の追求は、真理の基準を人間の理性に置いているのだが、その方向が遂にAIをも生み出し、人間自身の存在の意味すら危ういものとされてきているのである。...
FvrHcwzaMAIvoM-
第256回「存在の故郷」⑪
第256回「存在の故郷」⑪  曇鸞が気づいたことは、第十一願のみではなかった。第十八願の成就を意味づけるために、第二十二願をも加えているのである。第十八願に第十一願・第二十二願を加えることによって、浄土への往生を得た衆生に大乗菩薩道の完成たる仏の位を与え、人間存在の完全満足たる大乗仏教の大涅槃(阿耨多羅三藐三菩提)の成就を与えるのだと、明らかにされたのであった。...
FvrHcwzaMAIvoM-
第255回「存在の故郷」⑩
第255回「存在の故郷」⑩  阿弥陀の本願の中に、「必至滅度の願」(『教行信証』「証巻」、『真宗聖典』〔以下『聖典』〕初版280頁、第二版319頁。親鸞は『無量寿経』の異訳『無量寿如来会』により「証大涅槃の願」〔同前〕とも呼んでいる)が語られている。曇鸞はこの願が、浄土の利益を表す願であると気づいた。それは、曇鸞が仏道の究極目的を見定めながら、自身の挫折体験を通して無量寿経の本願を見直したとき、当然出会うべき事柄であったと言えよう。実は曇鸞がこのことを表現したのは、天親菩薩の『浄土論』解義分の結びにある「速やかに阿耨多羅三藐三菩提(無上菩提)を成就することを得る」(『大正新修大蔵経』第36巻、233頁a。原漢文)という言葉を解釈するためであった。...

テーマ別アーカイブ