親鸞仏教センター所長
本多 弘之
(HONDA Hiroyuki)
一如は、真如とか法性とか、さらには涅槃などとも同義語であると親鸞は見ている。これらの言葉を、「必至滅度の願」に応ずる真実証の内容であるとして、「証巻」の始め(『真宗聖典』279頁参照)に列記しているのである。ちなみに、必至滅度の願を異訳の『無量寿経』(唐訳・『無量寿如来会』)の第十一願に由って、「証大涅槃の願」(『真宗聖典』280頁)とも言われている。だから、滅度や大涅槃も、一如とか法性と同義語だとしているのである。
この一如や法性は、「無為法」に属する概念であるから、不生不滅・不去不来であり、不変なることと定義される事柄である。親鸞は、本願の経説は、この不変なるものを、苦悩の闇に沈淪する衆生に触れさせるために、物語として立ち上がったものだ、といただかれた。だから、「一如宝海よりかたちをあらわして、法蔵菩薩となのりたまいて、無碍のちかいをおこしたまうをたねとして、阿弥陀仏となりたまう」(『一念多念文意』、『真宗聖典』543頁)と言われるのである。
われらは、末法濁世の苦悩の有情であると言われる。時代が釈迦如来の在世からはるかに隔たって、もう釈尊教の教え方では、如来の境地を衆生が獲得(ぎゃくとく)することはできないのだ、と。これは時代を生きる機が「理深解微(りじんげみ)」(『安楽集』)であるとも言われるが、人間の理性がだんだん進歩するという考え方に対して、仏法に触れるための自覚からますます隔たっていくという人間観なのである。
そもそも、人間の罪は「分別」にあるということが、大乗仏教の見方である。我執の奥に「法執」があり、煩悩障より深く、「所知障」、つまり菩提を障(さ)えるような分別がある。これを人間の深い罪だとするのである。理知がはびこり、分別でがんじがらめになっていく方向は、まさにますます末法濁世の方向なのである。現代の情況で言うなら、たとえば、情報化社会のなかで、いよいよ管理体制が厳しくなっていると言われる。国民総番号体制などが敷かれるなどとも言われる。こうなると、個人の自由はどうなるのか。なんだか、ますます窮屈で自己の生命の独自の豊かさが剥奪されていくような気がするではないか。
たしかに、人間が時間をかけて、労力を費やして成し遂げるしかなかった事柄を、機械や器具で容易に短時間で仕上げられるようになった。それで、はたして人間にゆとりの時間がもたらされたのであろうか。耳にするのは、コンピューターが日常化して、ますます多忙になったという言葉である。新幹線網が充足して、日帰り出張になって、ゆっくり旅行気分に浸ることなど無くなったとも言われているのである。
(2012年10月1日)