親鸞仏教センター

親鸞仏教センター

The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

親鸞仏教センター

The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

公開講座画像

親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 存在の本来性を、衆生に知らせんがために、形なき法性を言葉に表現するということ。このことは、「弥陀仏のよう」とか「方便法身」となった報土のみに限られることではない。そもそも、一如とか涅槃とかを、衆生にとっての本来帰るべき本来性として教えるというところに、形を破って形を越えてはたらく、「なにか」を感受する人間の特質があるのではないか。それを「神」とか「ほとけ」というような言葉を通して、あたかも形となって存在の根源から作用するもののごとくに伝承してきたのが、神話化した宗教だったのかもしれない。シッダールタは、それが却って人間を縛るような実体的なものであるとして、その解体のために勤苦六年といわれる苦労をされたのではないか。

 その結果、生きることに傷つき苦しむ自分自身の根源に、自己を実体的なるものとして執着する心理作用があることに気づいて、これこそが人生を不安と苦悩に沈めている根本原因なのだと理解した。すなわち、自我の執着こそが、人間の根本問題なのだと見抜いた。そして、この自我の執着から解放された明るみを、深々と味わう智恵を「さと」ったと言われているのである。ここに、人間の帰るべき本来性があるのだとして、これを一切の人類が獲得すべき智恵として、この明るみを教えるべく言葉を紡ぎ出したのである。

 自己は自我なのではなく、因縁所生のいのちである。それを実体ある個我だと思い込むことは、無始以来の無明によるというのである。無明とは自我の実体化について、気づくことのない意識のありかたである。しかし、無始以来と言われるからには、その妄念は、ほとんど解体不可能なほどに深く自己の奥底にへばりついている。これを解体すべく、如来は種々の論理や言葉を駆使して教えられた。

 人間は、言葉と論理には、ある程度訓練によってなじんではいけるのだが、存在の奥底にへばりついている執念のような無明を引きはがすことはほとんどできない。そこに、仏教の歴史が、人間存在の本来性を求めて種々の方法を探し求め、真実に人間が解放される方向を実現すべく歩んできたのであろう。

 その苦悩の深さと妄念の強さを見通した諸仏如来の智恵は、仏教の求道の歴史の始原に、無明に気づかせるような、存在の本来性そのものの自己回復意欲のごときものを、「如来の本願」として説き出すという方法を発見したのではなかったか。『無量寿経』の教主が、「仏々相念」の喜びにおいて、「光顔魏魏」と輝いたことは、それに諸仏が賛同するような根源の意欲を見いだしたことを表しているのではないか。

(2012年12月1日)

最近の投稿を読む

FvrHcwzaMAIvoM-
第257回「存在の故郷」⑫
第257回「存在の故郷」⑫  人間は合理的な生活を追求してきたのであるが、現代のいわゆる先進国の人びとは、はたして生きることに満足が与えられているのであろうか。忙しく情報に振り回されているのが実態なのではないか。そして孤独と憂愁にとりつかれ、不安の生活に沈んでいくことが多いのではないか。  現代社会はこの方向に進展し、資本主義社会において功利性を追い求め、合理性を追求する結果、人間の本来性から遠ざかっていくように思われてならない。その合理性の追求は、真理の基準を人間の理性に置いているのだが、その方向が遂にAIをも生み出し、人間自身の存在の意味すら危ういものとされてきているのである。...
FvrHcwzaMAIvoM-
第256回「存在の故郷」⑪
第256回「存在の故郷」⑪  曇鸞が気づいたことは、第十一願のみではなかった。第十八願の成就を意味づけるために、第二十二願をも加えているのである。第十八願に第十一願・第二十二願を加えることによって、浄土への往生を得た衆生に大乗菩薩道の完成たる仏の位を与え、人間存在の完全満足たる大乗仏教の大涅槃(阿耨多羅三藐三菩提)の成就を与えるのだと、明らかにされたのであった。...
FvrHcwzaMAIvoM-
第255回「存在の故郷」⑩
第255回「存在の故郷」⑩  阿弥陀の本願の中に、「必至滅度の願」(『教行信証』「証巻」、『真宗聖典』〔以下『聖典』〕初版280頁、第二版319頁。親鸞は『無量寿経』の異訳『無量寿如来会』により「証大涅槃の願」〔同前〕とも呼んでいる)が語られている。曇鸞はこの願が、浄土の利益を表す願であると気づいた。それは、曇鸞が仏道の究極目的を見定めながら、自身の挫折体験を通して無量寿経の本願を見直したとき、当然出会うべき事柄であったと言えよう。実は曇鸞がこのことを表現したのは、天親菩薩の『浄土論』解義分の結びにある「速やかに阿耨多羅三藐三菩提(無上菩提)を成就することを得る」(『大正新修大蔵経』第36巻、233頁a。原漢文)という言葉を解釈するためであった。...

テーマ別アーカイブ