親鸞仏教センター所長
本多 弘之
(HONDA Hiroyuki)
親鸞聖人は『三経往生文類』において、必至滅度の願(第十一願)と至心信楽の願(第十八願)の関係を、「念仏往生の願因によりて、必至滅度の願果をうるなり」(『真宗聖典』468頁)と表される。これを「正信偈」では、「至心信楽願為因 成等覚証大涅槃 必至滅度願成就(至心信楽の願を因とす。等覚を成り、大涅槃を証することは、必至滅度の願成就なり。」(『真宗聖典』204頁)と言われる。この内容が『大経』の語る往生(「大経往生」)、すなわち難思議往生なのであり、「現生に正定聚のくらいに住して、かならず真実報土にいたる。これは阿弥陀如来の往相回向の真因なるがゆえに、無上涅槃のさとりをひらく」(『真宗聖典』468頁)のであるとされている。また「報土因果顕誓願(報土の因果は誓願なりと顕したまう)」(「正信偈」、『真宗聖典』206頁)とも言われているから、凡夫は徹底的に本願力の回向において、仏教の究極の果德である涅槃やその象徴的なかたちである真実報土は、自然に与えられることであり、要はそれを本願力の施与(せよ)であると信受することが大切なのだと教えられる。その信の内実は、如来の大悲が『大経』に語る本願の因果を、回向を通して衆生に施与するのだ、ということなのである。
ただし、衆生に確信されることは、「現生に正定聚のくらいに住し」て、「信巻」に語られる現生十種の利益(『真宗聖典』240頁)や、「現世利益和讃(げんぜりやくわさん)」(『真宗聖典』487頁参照)に詠(うた)われる「よるひるつねにまもる」諸仏・諸菩薩のはたらきを感じつつ、本願力を信じて生きることの喜びを生活していくことであって、決して凡夫そのままで仏果の菩提・涅槃を得てしまうのではない。仏の位は、阿弥陀が衆生に誓う本願の内容なのだから、それを深く信ずるのである。それを「かならず」とか「正定聚のくらい」とかと押さえて、それを信ずることを、「必の言は、…金剛心成就の貌(かおばせ)」(『真宗聖典』178頁)である因なのだとされるのである。信心にとっての「証果」は「かならず」として願力回向の信心に具せられている。「証」も如来の往相回向として衆生に施与されるのであるから、その獲得は凡夫の仕事なのではなく、如来の仕事なのである。だから、凡夫の時間・空間で考えるべきではないのである。
『浄土論』では、荘厳功徳の一番初めに清浄功徳とは「勝過三界道(三界の道に勝過せり)」(『真宗聖典』135頁)であるとされる。三界は凡夫のあらゆる生活空間であるから、下は欲界から上は天に昇るような透明な体験であっても、決して涅槃の境地ではない。凡夫の時空を超越したことがらに、向こう側から来るはたらきを信ずるのである。大乗の涅槃は、荘厳功徳として語られる主功徳や眷属功徳(『真宗聖典』140頁参照)の意味ももつが、同時に『浄土論』解義分で語られる「善巧摂化章(ぜんぎょうせっけしょう)」(『真宗聖典』143頁参照)以下のような大菩提心が展開する事態であり、それを曇鸞大師が「還相回向」と語られるのだと親鸞聖人はいただかれて、「証巻」に『論註』下巻を大幅にご引用になられる。われら凡夫は自力で三界を出ることなど、未来永劫にありえないのであるが、阿弥陀如来は大涅槃から立ちあがって、凡夫に涅槃の功徳を恵もうというところに、本願力回向の因果が開かれてきているのである。その全体を願力不思議と信知して、「法性常楽」は他力の信の必然の功徳としてお任せすればよいということなのである。
(2013年8月1日)