親鸞仏教センター所長
本多 弘之
(HONDA Hiroyuki)
真実信心を因とし、真実証を果とする。その因果が、選択本願の因果であり、その因果を大悲心の回向の内容として、罪濁の凡愚(ぼんぐ)を等しく潤そうということ、これが法蔵願心の五劫思惟(ごこうしゆい)の問題意識であり、その具現の事実を衆生の信心に確定させることに、兆載永劫(ちょうさいようごう)のご苦労を仰ぐ。これが『大無量寿経』の物語を、真実教といただく信念内容と決定したのが、親鸞の聞思だったのだと思う。
如来願心の因果の間に、人間的な時間を挟まない。物語としては、因位から果位へは、無限の時間を語ると同時に、すでに成仏して「十劫を歴(へ)たまえり」(『浄土和讃』479頁)とも語り、果から因位へ物語的な転出(従果向因)をするのだとも言われる。
これは先にも触れたように、およそ有為転変(ういてんぺん)する衆生の迷妄の時間に対して、これを突破する菩提の智恵が見いだしている無為・真如・涅槃と言われるような超越的内実を、いかにして迷妄の衆生に語りかけうるか、という課題があるからである。この因果が衆生に関係する場面に、「即時」という時を表現されても、凡愚にとっては何のことかわからないのである。「必至滅度」という願が成就して、第十一願成就の文の「生彼国者、皆悉住於正定之聚」(『真宗聖典』44頁)となることは、文章としては「かの国に生まれたならば、皆ことごとく正定の聚に住す」ということなのであろう。それを親鸞は、「かのくににうまれんとするものは、みなことごとく正定の聚に住す」(『一念多念文意』、『真宗聖典』536頁)と、あえて読んでいる。得生の位の利益を願生の位で獲得すると主張するのである。ここに、「必」という未来をはらんだ確信が、現在にすでに成り立っている内実でもあるという、大変了解しにくい信念内容が提起されているのである。
ここが了解しにくいので、回向との値遇(ちぐう)によって与えられる利益にかかわる「即時」に、状況的限定を入れたり、因果を分けて二つの時のように解き明かしてきたのである。親鸞の思想は、凡夫が本願力に値遇するという構造において、この納得しがたい有為と無為との接点を、愚かな凡愚の信心において衆生のものにしようとしたのではなかったか。そのために、衆生からの努力の延長ではなく、まったく衆生を超えた本願他力のはたらきで、衆生に「諸仏とひとし」(『真宗聖典』588頁等参照)とか「弥勒とおなじ」(『真宗聖典』588頁等参照)とか「如来と等し」(『真宗聖典』230頁等参照)とかという位がもたらされることを語られるのであろう。
この信心の内にたまわる因果は、いわゆる二種深信の構造として自覚の内面に矛盾的に定着する。どこまでも愚痴深く罪濁の心を浄(きよ)めることのない凡夫でありながら、本願力に帰して大悲の願船に乗ずる安心を生きられるのであると。その願船のかたちこそ、弥陀の名号となった大悲の願行だと信受されるのである。
(2013年10月1日)