親鸞仏教センター

親鸞仏教センター

The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

公開講座画像

親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 「大涅槃」は衆生にとって「純粋未来」の課題であると、曽我量深先生が表現する。それは、凡夫が涅槃を直接体験するのではない。衆生の本来性に内具する真理を、必ず目覚めさせずにはおかない本願の力が、大悲の論理を表現する言葉なのである。この表現の本になる本願の願言「必至滅度」は、時間を超えた「純粋未来」の存在構造を言い当てようとする表現なのである。この「必至」を内に孕(はら)む信念が、如来回向のはたらきを受けとめた衆生の信心である。このことを確定的に自覚することが、「現生正定聚」の信心の意味なのである。

 「能発一念喜愛心(よく一念喜愛の心を発すれば)」(『真宗聖典』204頁)は、「惑染凡夫」を一瞬一念も不実を混ぜることなく信頼してはたらく大悲心が、「惑染」を突破して「信心発」という不可思議の現行(げんぎょう)を実現することを表す。凡夫に信心が起こること自体が、その不可思議の事実なのである。だから、この信心を獲得することができるならば、「生死即涅槃」は如来願心における必然性が、一切衆生の信心の必然性となってくる。「不断煩悩得涅槃(煩悩を断ぜずして涅槃を得るなり)」(『真宗聖典』204頁)は、一念の信の内に必然として確保される内容なのである。大乗仏教の根本テーマに、本願の信がしっかりと応答することを示しているのである。

 煩悩と菩提の絶対矛盾を、存在の真理の側から突破させようとすることが、本願力の不思議として語られるのである。法蔵菩薩の永劫修行の物語には、終着点はない。にもかかわらず、無限大悲はすでに「南無阿弥陀仏」として、現に不断に摂取不捨のはたらきを恵み続ける行となっている。真如一実からくるはたらきが、時を破って、永劫の功徳を一念に現行するかたちを具現している。このことに値遇(ちぐう)することが、信心である。だからこそ真実信心は、時間によって変質することのないダイヤモンドの質をもった「金剛心」なのである。善導大師が「正受金剛心」(『真宗聖典』147頁)と言うのは、一念の信心が「永劫修行」を湛(たた)えているからであるに相違ない。千載一遇のこの一瞬に、永劫の超時間が超発して来ているということなのである。

 この大悲の論理は、「煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萌」(『真宗聖典』280頁)に、この不可思議の金剛心を実現することを誓う。これに衆生が出遇うことは、大悲の側からのはたらきかけによるしかない。それを本願他力の往相回向と教えているのである。これに値遇するとき、「大乗正定聚」に住することができるのである。その値遇に「純粋未来」に安住する心行が与えられる。この値遇の一念に、「証大涅槃」が「必至」の弘誓として信受される。これに「分水嶺」の危機意識が付帯していることにおいて、生きた凡夫の分限が知らされるのである。

(2014年1月1日)

最近の投稿を読む

FvrHcwzaMAIvoM-
第255回「存在の故郷」⑩
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第255回「存在の故郷」⑩  阿弥陀の本願の中に、「必至滅度の願」(『教行信証』「証巻」、『真宗聖典』〔以下『聖典』〕初版280頁、第二版319頁。親鸞は『無量寿経』の異訳『無量寿如来会』により「証大涅槃の願」〔同...
FvrHcwzaMAIvoM-
第254回「存在の故郷」⑨
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第254回「存在の故郷」⑨  衆生の本来性である「一如」・「大涅槃」は、釈尊の体験における「無我」を表現したことに相違ない。その無我が衆生の本来有るべきあり方ということである。しかしそのあり方を求める衆生は、その意...
FvrHcwzaMAIvoM-
第253回「存在の故郷」⑧
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第253回「存在の故郷」⑧  この難信の課題が起こってきたのは、仏陀が衆生を無我の菩提に導こうとするそのとき、生きている釈尊を人間の模範として見ている衆生の眼に根本的な誤解があったからではないか。釈尊が入滅せんとす...

テーマ別アーカイブ