親鸞仏教センター

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The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 天親の『浄土論』を菩提流支三蔵(ぼだいるしさんぞう)が翻訳した。後に『解深密経(げじんみっきょう)』の経名で訳される唯識思想の根本経典を、『深密解脱経(じんみつげだつきょう)』の名で翻訳し、天親の『十地経論』をも訳した菩提流支が、この『無量寿経優婆提舎願生偈(むりょうじゅきょううばだいしゃがんしょうげ)』(『浄土論』)を訳しているということに、すでに大事な意味があるのではないか。

 そして、この翻訳の会座(えざ)で菩提流支に出遇った曇鸞が、仙経を焚焼したと伝えられる回心(えしん)とともに、浄土教を受け取ったとされるのは、後に渾身の力をこめて注釈をした『浄土論』を受け取ったと考えることが自然なのだと思う。その『浄土論』を書いた天親は、唯識思想を兄の無著(むぢゃく)から受け継いで、『二十頌唯識論』を書いて一切唯識の旗幟(きし)を鮮明にし、さらには『唯識三十頌』にまとめ直した。その天親と同時代に北インドで学んで翻訳三蔵として中国に渡った菩提流支が、天親の『浄土論』製作の経緯について何らかの教示を曇鸞に与えたと言うことも十分推察されうるであろう。

 その曇鸞が菩薩道の難関にかかわって、天親がこの『無量寿経』による論を作ったのだと記述していることは、見逃してはならない事柄だと思うのである。

 七地沈空(ちんぐう)の難を乗り越えられるのは、「諸仏の加勧(かかん)」を受けるからだとされる。この諸仏の加勧ということと、「上に諸仏の求むべきを見ず」という難関に落ち込む求道の問題が、法蔵願心の教えに関係するのではないか、と思われる。沈空の難の本質は、自己の精神的な煩悶の根を菩薩道の修練で断ち切ったと感ずるところにある。自己の内なる迷妄の根を断ち切ったことによって、生きるところに起こる諸問題に少しも問題性を感じなくなる。これは、阿羅漢果(あらかんか)に至った小乗の聖者と同じ精神的境位であろう。確かに個人的には苦悩を超えたと言えるのであろうが、衆生の苦悩にまったく共感することが無くなるのである。

 法蔵願心が苦悩の衆生の救済を自己の課題として、「兆載永劫(ちょうさいようごう)」(『真宗聖典』27頁参照)に歩み続けて「志願無倦(しがんむけん)」(同前)であるとされるのは、この個人関心的救済への沈没を突き抜けていることを表している。

 『華厳経』が語る無窮極の求道は、諸仏が求めて出遇ってきた法性平等から出発している。換言すれば、大涅槃から出発している。法蔵菩薩も、一如宝海(いちにょほうかい)から立ち上がったのだという親鸞の表現には、諸仏の加勧と同じ地平の願心への共感が秘められているのではないか。

 曇鸞が「法性法身に由って方便法身を生ず。方便法身に由って法性法身を出だす。」(『真宗聖典』290頁参照)と表したことは、形ある荘厳となっても形なき法性を失わず、有限に手がかりを表して、少しも無限の本質を失わないという、大乗の菩薩道を支える求道心を、法蔵菩薩に仰いでいるということなのであろう。

(2014年6月1日)

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