親鸞仏教センター

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The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 「生まれ直し」の思想として浄土の教えの意味を、考察してみようとしている。仏教が人間に与える救いは、人間の迷いからの根本的な解放である。そこに的を絞るなら、唯識思想が言うように「転識得智(てんじきとくち)」が成り立つことで、人間は迷妄苦悩の人生に別れを告げられるのであろう。

 その唯識思想の大成者たる世親が、『浄土論』を作ったということに大きな意味があると思うのである。『浄土論』は『無量寿経』を依り処として、仏陀の教えと相応することを得た喜びの表現である。「世尊我一心」(『真宗聖典』135頁参照)に始まるこの「論偈」は、願生浄土の意欲を、本願力に由って成就することを詠っている。

  課題は意識の本質的転換による人間存在の解放なのであろうが、その課題を障碍する難問題を人間自身が抱えているということがある。願生浄土は、凡夫の生きている場(人間関係や自然環境を包む)を超えて、如来本願力が生み出した新しい場(願心荘厳の浄土)に生まれ直すかたちで、仏道を成就する教えである。自己自身の問題を意識改革で成就するという方法が唯識思想を成り立たしているとするなら、浄土教とは自己存在を支えている場、自己存在を成り立たせているすべての関係を、全面的に入れ替えることで、自己自身を変革しようとする教えであるということである。

 これは、真の意味の自己解放を成就するには、いわば一旦生存の全条件を改変しなければならないということ、つまり「死」をくぐることを教えの本質にするということであろう。この要求について気づかされるのは、『浄土論』の解義分の「善巧摂化章(ぜんぎょうせっけしょう)」(『真宗聖典』143頁参照)以下に「回向門」が展開的に開示されているのだが、そこに一切衆生を救う為に、「自身の住持の楽を求めず」とか「自身を供養し恭敬(くぎょう)する心を遠離(おんり)」(『浄土論』「離菩提障章」、同前参照)することが、繰り返して言われていることである。

 唯識では根本煩悩(ぼんのう)に六を数える。「貪・瞋・痴・慢・疑・悪見」である。悪見を五種に開いて、「有身見・辺見・邪見・見取見・戒禁取見」と言われるが、特に人間の意識に深く巣くう「我見」、すなわち「有身見」が求道の根本問題であろう。この有身見は自分の身体に付帯している自我意識であり、身が生きている限り、寝ても覚めてもはたらいている我執の煩悩であると言える。

 阿頼耶識なる自己を自我だと意識する作用として、阿頼耶識とは別に末那(まな)識という意識を独立させて立ててきたのが、世親の『唯識三十頌』である。末那識は、我痴・我見・我慢・我愛の煩悩と相応して、阿頼耶とともに生命のある限り持続する。意識作用の本質に、いわばアプリオリの煩悩(唯識では倶生起〈くしょうき〉の煩悩という)を見いだしたということ、それが『浄土論』の回向門に絡む「自身」への執着を破る課題に深く関わるのではないかと思うのである。

(2014年11月1日)

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