親鸞仏教センター所長
本多 弘之
(HONDA Hiroyuki)
『摂大乗論』では、阿頼耶(あらや)識から独立した意識として、末那(まな)識と名づけられる意識はまだ見いだされていない。阿頼耶識の内に、阿頼耶識を汚す「雑染(ぞうぜん)分」の種子(しゅうじ)が蔵せられている、というところまで自覚されてきている。この雑染分、すなわち根本主体を常に自我ととらえる意識を、「末那識」と名づけて、意識の深層に倶生起(くしょうき)の(生存にアプリオリに付いている)煩悩(ぼんのう)として、寝ても覚めても現行(げんぎょう)している意識があると自覚したのが、『唯識三十頌』の世親であった。
この自覚と同じ深さの罪の自覚を善導は、『観経』三心(さんじん)の「深心」において、「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫より已来、常に没し常に流転して、出離の縁あることなし」(『真宗聖典』215頁)と表現した。親鸞はこれを真実信心の内に付帯する自覚の必須契機であると見たのである。
この自我意識の罪障性を、もし消し去るべき課題だと考えて、自己の努力で抹消することを成し遂げようと誠実に努めて行くなら、文字どおりの肉体的生滅としての死が、宗教的救済の必須条件と成ってくることになる。そこに如来の本願が、臨終来迎のかたちで救済の手を差し伸べるのであろう。この倶生起として付着する自我愛着の煩悩を脱脚できないのは、われわれ衆生には、生命の歴史を生き抜いてきた罪悪性があるからである。深い地獄的とも言える罪悪の歴史的刻印である。それでも、その罪障性を拭い去って清浄なる身に成りうると考えるところに、自力の執心があることを教えるのが、如来の清浄願心の教えなのである。
すなわち、大悲が臨終を条件にするのは、仏道を生きようとする人間の自己把握に自力の限界を教えんがためなのである。その大悲から、本願力は仏の名のみが、衆生の救済の方法になり得るということを選択した。人間の課題をいつでもどこでも誰でも解決していける道を開くために、大悲は個人によって状況や能力の違いが出てくる方法を避けたのである。「平等の慈悲に催されて」動き出す大悲の仏の名告りを信ぜよと、如来が呼びかけるのである。この無条件的な大いなる悲願を信ずるなら、そのときに如来の大悲の救済がくることを信ずるのである。死を条件にして、人間の深い罪障性を抹消して救うのでなく、罪業深重をもさまたげとしない広大なる光明をもって、無明の闇を破るはたらきがくると教えるのである。
ここには、いわゆる自力の執心に死ぬと言えるような転換があると、親鸞は気づいた。それで、「本願を信受するは、前念命終なり」(『愚禿鈔』、『真宗聖典』430頁)と言われるのである。本願成就の文の「願生彼国 即得往生」を、善導が「前念命終 後念即生彼国」(『真宗聖典』245頁参照)と書いているところの「前念命終」について、これは本願が呼びかける「死」、すなわち妄念のいのちに死んで、本願の信に生きること、すなわち「信の一念」を表すのだといただいたのである。
(2014年12月1日)