親鸞仏教センター

親鸞仏教センター

The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

親鸞仏教センター

The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

公開講座画像

親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 親鸞は、『無量寿経』の「横截五悪趣」の文を、善導の「横超断四流」の文に付き合わせて、「横超」が信心内面の功徳であることを表されている(『真宗聖典』243頁参照)。この「横さまに超える」ということを、少し考えてみたい。私たちは普通、この世の苦悩を突破する宗教的智見が、この世のレベルを超越すると表現されているとき、いわゆる日常生活の地平を上昇的に超えて行くようにイメージするのではないかと思う。この上部に超越する果てに、「天界」も想像されるようである。いわば、鳥瞰図(ちょうかんず)的に日常生活を見下ろすような超越が一般的に予想されるのだと思う。

 それに対して、親鸞は「超発希有大弘誓〈希有の大弘誓を超発せり〉」(『教行信証』「正信偈」、『真宗聖典』204頁)というとき、この「超」を「横(おう)」の方向の超越として考察しようとした。これをどうイメージすればよいのであろうか。親鸞に「心を弘誓の仏地に樹て」(『教行信証』「後序」、『真宗聖典』400頁)という表現がある。仮にこれをイメージに取り入れるなら、われらが弘誓の大地を根拠として立ち上がるなら、その根拠とする大地の広大・無辺の平面が日常世界をも場として包みつつ、その日常生活の閉鎖性を突破して無限に開かれていく場をわれらに開くということではないか。鳥瞰図に対して虫瞰図という語を造った人がいたが、煩悩の大地をむしろ涅槃の場に転じていくような大悲願心のはたらきを表そうとするのではないであろうか。「虫」という言葉がもつイメージを、煩悩具足・罪悪深重の凡夫に置き換えるなら、むしろ地獄の底を「一定すみか」(『歎異抄』、『真宗聖典』627頁)と見定めるような願心の視座を言うのであろう。一切衆生を平等の慈悲の視界に置いて、業繋(ごうけ)を弘誓の場として引き受ける法蔵願心が、その衆生を「光を背にして闇へ」と超越的に突入させるのである。

 善導の「能生清浄願往生心」(『真宗聖典』220頁参照)という二河白道の譬喩の表現を、親鸞は「衆生貪瞋煩悩中」に「能生清浄」の「願心」が生ずると言う(『真宗聖典』235頁参照)。この「願心」は法蔵願心であろうが、発起する場は「衆生貪瞋煩悩中」である。衆生の煩悩の心を竪(しゅ)に超えるのでなく、むしろ衆生の心の根源に掘削(くっさく)的に超発すると言うのではないか。それを「横(よこさま)」に発起(ほっき)すると表現する。私たちが自分で煩悩生活を超えようとするのでもなく、また貪瞋煩悩の圧力に負けるのでもない。碍(さわ)りだらけの濁世の有情が、無碍の願心に帰依することによって、自分の力で碍りを超えるのではないが、本願力によって一切の有碍を超えることが成り立つのだと言うのである。無量光が「一切の有碍にさわりなし」(『浄土和讃』、『真宗聖典』479頁)と光明摂取のはたらきを届けてくるからである。

(2015年5月1日)

最近の投稿を読む

FvrHcwzaMAIvoM-
第257回「存在の故郷」⑫
第257回「存在の故郷」⑫  人間は合理的な生活を追求してきたのであるが、現代のいわゆる先進国の人びとは、はたして生きることに満足が与えられているのであろうか。忙しく情報に振り回されているのが実態なのではないか。そして孤独と憂愁にとりつかれ、不安の生活に沈んでいくことが多いのではないか。  現代社会はこの方向に進展し、資本主義社会において功利性を追い求め、合理性を追求する結果、人間の本来性から遠ざかっていくように思われてならない。その合理性の追求は、真理の基準を人間の理性に置いているのだが、その方向が遂にAIをも生み出し、人間自身の存在の意味すら危ういものとされてきているのである。...
FvrHcwzaMAIvoM-
第256回「存在の故郷」⑪
第256回「存在の故郷」⑪  曇鸞が気づいたことは、第十一願のみではなかった。第十八願の成就を意味づけるために、第二十二願をも加えているのである。第十八願に第十一願・第二十二願を加えることによって、浄土への往生を得た衆生に大乗菩薩道の完成たる仏の位を与え、人間存在の完全満足たる大乗仏教の大涅槃(阿耨多羅三藐三菩提)の成就を与えるのだと、明らかにされたのであった。...
FvrHcwzaMAIvoM-
第255回「存在の故郷」⑩
第255回「存在の故郷」⑩  阿弥陀の本願の中に、「必至滅度の願」(『教行信証』「証巻」、『真宗聖典』〔以下『聖典』〕初版280頁、第二版319頁。親鸞は『無量寿経』の異訳『無量寿如来会』により「証大涅槃の願」〔同前〕とも呼んでいる)が語られている。曇鸞はこの願が、浄土の利益を表す願であると気づいた。それは、曇鸞が仏道の究極目的を見定めながら、自身の挫折体験を通して無量寿経の本願を見直したとき、当然出会うべき事柄であったと言えよう。実は曇鸞がこのことを表現したのは、天親菩薩の『浄土論』解義分の結びにある「速やかに阿耨多羅三藐三菩提(無上菩提)を成就することを得る」(『大正新修大蔵経』第36巻、233頁a。原漢文)という言葉を解釈するためであった。...

テーマ別アーカイブ