親鸞仏教センター

親鸞仏教センター

The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

公開講座画像

親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 『無量寿経』が「法蔵菩薩」の名で語りかける願心は、われら凡夫の意識上には、ほとんど自覚的になってこない。これを自覚するのは、「たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ」(『教行信証』、『真宗聖典』149頁)と言われるように、永い聞法の因縁の積み重ねによる。聞法によって、教えに帰依することが自覚するための必要条件である。そして、自覚された願心は「横超の菩提心」(『真宗聖典』237頁)という意味をもつ真実の信心だと言われるのである。

 この本願の信心は、願心自身が聞法の縁を受けて、衆生の貪瞋煩悩の生活のただなかに「発起」する。それを「信楽を獲得することは、如来選択の願心より発起す」(『教行信証』「信巻」、『真宗聖典』210頁)と言われる。そして、それが発起するためには、「真心を開闡することは、大聖矜哀の善巧より顕彰せり。」()と、教法を聞法する縁が大切だと言われているのである。

 この自覚された願心に「横超」という質があると親鸞が確認するのは、善導が「共発金剛志 横超断四流」(『真宗聖典』235頁参照)と言っていることに依っている。「共発」の願心が「金剛の志」となるとき、「四流(生老病死)」を超断するのだ、と言われているからである。しかし、その「断」は、人間の意志や努力で「竪(しゅ)」に截断するのでなく、「横(おう)」に(本願力によって)截るのだという。この問題を、「信巻」で『無量寿経』の「横截五悪趣」(『真宗聖典』57頁243頁参照)の語と合わせて、信心が流転を超える菩提心であることを論証しているのである。

 この「横截」ということが、何を表そうとしているのかが、われらにはよくわからない。意識上の煩悩や生死の迷いを「截断」するというのなら、願力の信心をいただいても、相変わらず凡夫に煩悩具足の生活が相続することと矛盾する。しかし、願力に帰するとき、自力のもがきで苦しむ生活に、何がしかの開放感が与えられることも確かな事実である。名号は「よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたもう」と言われるのだから、無明が破られる事実がないなら、名号を信受したことになっていないということにもなる。ここをどう考えるべきであろうか。

 「すでによく無明の闇を破すといえども、貪愛・瞋憎の雲霧、常に真実信心の天に覆えり」(「正信偈」、『真宗聖典』204頁)と言われる。無明を破っても煩悩の妄雲が覆うという。これはどういう事態を言い当てているのか。この場合の「無明」は、「根本無明」であるとされる。浄土教で言うなら、自力の執心であろう。この根本無明が破られても、意識上の貪瞋煩悩は止まないというのである。このことは、意識上の煩悩と意識下の煩悩があるということである。意識下とは、意識の深層のことである。この質の煩悩を、唯識論では末那(まな)識に相応する「倶生起の煩悩」と教えている。生存と同時的に付与されている煩悩があるというのである。意識より深いところに巣くう闇があるということである。これは竪(たて)型の努力意識からは見えない。大悲に出遇うとは、この意識下の闇が晴らされるということではないか。

(2015年10月1日)

最近の投稿を読む

FvrHcwzaMAIvoM-
第255回「存在の故郷」⑩
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第255回「存在の故郷」⑩  阿弥陀の本願の中に、「必至滅度の願」(『教行信証』「証巻」、『真宗聖典』〔以下『聖典』〕初版280頁、第二版319頁。親鸞は『無量寿経』の異訳『無量寿如来会』により「証大涅槃の願」〔同...
FvrHcwzaMAIvoM-
第254回「存在の故郷」⑨
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第254回「存在の故郷」⑨  衆生の本来性である「一如」・「大涅槃」は、釈尊の体験における「無我」を表現したことに相違ない。その無我が衆生の本来有るべきあり方ということである。しかしそのあり方を求める衆生は、その意...
FvrHcwzaMAIvoM-
第253回「存在の故郷」⑧
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第253回「存在の故郷」⑧  この難信の課題が起こってきたのは、仏陀が衆生を無我の菩提に導こうとするそのとき、生きている釈尊を人間の模範として見ている衆生の眼に根本的な誤解があったからではないか。釈尊が入滅せんとす...

テーマ別アーカイブ