親鸞仏教センター

親鸞仏教センター

The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

親鸞仏教センター

The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

公開講座画像

親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 親鸞は、「横超の信心」(『真宗聖典』555頁)が「金剛心」であることを、善導の「共発金剛志」、および「正受金剛心」という語を手がかりに考察している(『真宗聖典』235頁参照)。そしてそのときに、「二河譬」にある「衆生貪瞋煩悩中 能生清浄願往生心〈衆生の貪瞋煩悩の中に、よく清浄願往生の心を生ぜしむる〉」(『真宗聖典』220頁参照)を取り出して、ここに金剛心が生起することを見いだしている。「能生清浄願心というは、金剛の信心を獲得するなり」(『真宗聖典』235頁)と。金剛とは、不変不壊であることの象徴であり、純粋無漏であるともされている。貪瞋煩悩の生活のただなかに、金剛心が発起するのだというのである。煩悩具足であることが、金剛心と矛盾すると感じるのが、われらの常識的感覚である。それを突破する質をもつ「こころ」が、われら凡夫に生起するのだと言われるのである。ただそのときに「願往生心」から「往生」の語を外している。このことの意味は別に考察したい。その「能生清浄願心」の具体的事実が、「雲霧之下明無闇〈雲霧の下、明らかにして闇きことなきがごとし〉」(『真宗聖典』205頁)を成り立たせるのではないか。

 煩悩生活の闇の根源を、大悲が洗い流していて、表層の煩悩生活は、縁によって生滅するけれども、その下には明るい地下層があるということである。このことは、深層意識に張り付いている倶生起の煩悩に、光明が差していることを明らかに自覚することではないか。末那(まな)識を具した深層意識とは、われらの意識生活を昼夜を分かたず支え続ける「阿頼耶(あらや)識」である。この阿頼耶識は生死相続の果をすべて引き受けて歩み続ける生命識である。一切衆生を射程にして兆載永劫に修行すると語られる「法蔵願心」は、この阿頼耶識の実存的意味を物語的に象徴するのであろうと思う。そうであるから親鸞が、「三恒河沙の諸仏の 出世のみもとにありしとき 大菩提心おこせども 自力かなわで流転せり」(『正像末和讃』、『真宗聖典』502頁)と和讃される意味を、この阿頼耶識の意味において考察できるのではないかと思う。

 永劫の流転を引き受けている阿頼耶識は、業の総報の果体であるとされる。この苦悩の実存たる業報の主体を、はたらきの場として引き受けるものが大悲の願たる法蔵魂である。しかし、無限の光明となろうとする法蔵願心が、この苦悩の主体のどこに「破闇満願」の事実を刻印できるのであろうか。

 思うに、阿頼耶識には「不可知の執受と処と了」ということがあるとされる。「不可知の執受」とは、「有根身(うこんじん)と種子(しゅうじ)」である。つまり、未来の可能性(種子)をはらみ、身体(機根を総合した身)をもっているということである。聖教を聞法した経験(聞熏習〈もんくんじゅう〉)はここに種子となって蓄積する。しかし、主体に熏習した種子が、そのままで光明を出すとは言えない。聞熏習の種子が現行するときは、表層意識のレベル(転識)に信心の明るみが出現することになる。しかし、表層に煩悩の雲霧が覆っていても、深層に光明の明るみがあるとはどういうことなのか。

(2015年11月1日)

最近の投稿を読む

FvrHcwzaMAIvoM-
第257回「存在の故郷」⑫
第257回「存在の故郷」⑫  人間は合理的な生活を追求してきたのであるが、現代のいわゆる先進国の人びとは、はたして生きることに満足が与えられているのであろうか。忙しく情報に振り回されているのが実態なのではないか。そして孤独と憂愁にとりつかれ、不安の生活に沈んでいくことが多いのではないか。  現代社会はこの方向に進展し、資本主義社会において功利性を追い求め、合理性を追求する結果、人間の本来性から遠ざかっていくように思われてならない。その合理性の追求は、真理の基準を人間の理性に置いているのだが、その方向が遂にAIをも生み出し、人間自身の存在の意味すら危ういものとされてきているのである。...
FvrHcwzaMAIvoM-
第256回「存在の故郷」⑪
第256回「存在の故郷」⑪  曇鸞が気づいたことは、第十一願のみではなかった。第十八願の成就を意味づけるために、第二十二願をも加えているのである。第十八願に第十一願・第二十二願を加えることによって、浄土への往生を得た衆生に大乗菩薩道の完成たる仏の位を与え、人間存在の完全満足たる大乗仏教の大涅槃(阿耨多羅三藐三菩提)の成就を与えるのだと、明らかにされたのであった。...
FvrHcwzaMAIvoM-
第255回「存在の故郷」⑩
第255回「存在の故郷」⑩  阿弥陀の本願の中に、「必至滅度の願」(『教行信証』「証巻」、『真宗聖典』〔以下『聖典』〕初版280頁、第二版319頁。親鸞は『無量寿経』の異訳『無量寿如来会』により「証大涅槃の願」〔同前〕とも呼んでいる)が語られている。曇鸞はこの願が、浄土の利益を表す願であると気づいた。それは、曇鸞が仏道の究極目的を見定めながら、自身の挫折体験を通して無量寿経の本願を見直したとき、当然出会うべき事柄であったと言えよう。実は曇鸞がこのことを表現したのは、天親菩薩の『浄土論』解義分の結びにある「速やかに阿耨多羅三藐三菩提(無上菩提)を成就することを得る」(『大正新修大蔵経』第36巻、233頁a。原漢文)という言葉を解釈するためであった。...

テーマ別アーカイブ