親鸞仏教センター所長
本多 弘之
(HONDA Hiroyuki)
「金剛心」を獲得(ぎゃくとく)するとは、貪瞋煩悩の生活のなかに、「能く清浄の願心を生ずる」(『真宗聖典』235頁参照)ことであるとされた。親鸞はこのことを、『教行信証』「信巻」の「欲生心」についての釈において押さえておられる。「欲生」とは本願の「至心・信楽・欲生」の三心の三番目の言葉である。
この言葉は、衆生に浄土に生まれたいと意欲せよという法蔵菩薩の呼びかけの心を表している。親鸞はこれを、阿弥陀如来の因位法蔵菩薩が衆生に呼びかける「招喚の勅命」(『真宗聖典』177頁)であると言われる。そしてこれを、大悲による「回向心」であるとも言われる。この回向心を衆生に巡らし向けることによって、衆生が求めて得られない清浄報土の功徳を、煩悩生活のなかに獲得させるはたらきが、信心として発起するのだと言われているのである。
これによって、碍り多き罪濁の衆生に、金剛心が獲得されると言われるのである。しかし、このことが煩悩罪濁のただなかに起こるということは、煩悩の雲霧(うんむ)による闇の生活がなくなることではない。このことを先に、深層意識の末那(まな)識が大悲の光明に照らされるという意識の構造で考えようとした。聞熏習(もんくんじゅう)による清浄なる善の種子(しゅうじ)が阿頼耶(あらや)識に蓄積して、そこに夜昼常に隔てない無限大悲の作用が有限なる凡夫存在の根底に清浄の因の土台を構築するとき、深層の自我意識に「破闇満願」の事実が生ずるということなのではないか。しかし、煩悩具足の凡夫であるかぎり、縁に催される煩悩の表層意識上の現行は止むことがない。この矛盾構造の状態をどうして、「金剛心の獲得」と言いうるのであろうか。
この難題を考察するにあたって、ここにひとつのヒントがある。阿頼耶識には、「不可知の執受(しゅうじゅ)と処と了」ということがある。「処」があるということは、生命は必ず「場」と共に成り立つということを表しているのである。つまり阿頼耶識は、身体と環境を自己の内容とする意識なのである。
一方で、第十二願(「光明無量の願」、『真宗聖典』17頁)・第十三願(「寿命無量の願」、同前)が真仏土を成立させる願であると押さえた親鸞の意図からすれば、本願が成就して無量光(無量寿)を場と感受する主体を誕生させようということがあるのではないか。この真仏土を場とすることによって、煩悩具足の凡夫が、「深層意識」に光明海を感得するということが成り立ちうるということなのではないか。すなわち「回心」をとおして、新しい場が根源的主体を支える場になってくるということが起こるのではないか。煩悩罪濁を妨げとせず、それを摂して仏弟子たることを成り立たせる場の明るみが、根本主体を支えることに成るとき、「弘誓の仏地」(『真宗聖典』400頁参照)に立ち上がる生活を「雲霧之下明無闇〈雲霧の下、明らかにして闇きことなきがごとし〉」と宣言できるのではないかと思うのである。
(2015年12月1日)