親鸞仏教センター所長
本多 弘之
(HONDA Hiroyuki)
「金剛心」が、貪瞋(とんじん)煩悩の生活のなかに発起する。そのことを親鸞は、「能く清浄の願心を生ずる」(『真宗聖典』235頁参照)ことであると押さえられた。その元の善導の二河白道の譬喩(ひゆ)では、「能生清浄願往生心」を白道に喩えている(『真宗聖典』220頁参照)。親鸞はこのままでは、自力の「願生心」と金剛の信心との差異を明確にできないと見られたのであろう。この貪瞋煩悩中の「願往生心」が、如来の勅命たる回向の「欲生心」であることを判明にするために「能生清浄願心」と「往生」の語を外されたのに相違ない。
この「欲生心」は、衆生に浄土に生まれることを欲せよという法蔵菩薩の呼びかけの心を表している。親鸞はこれを、法蔵菩薩が衆生に呼びかける「招喚の勅命」(『真宗聖典』177頁)であるとされた。この意欲は、人間存在の根底に、無明を破って流転を超え、存在の本来のありかたに回帰したい、という深層の意欲と見たのである。一切の苦悩の衆生が、存在の根源においては、生命の本来性を回復したいと切望しているのだということである。これが、如来の悲願から一切の衆生への「勅命」として受けとめられた「欲生」の意味である、と。
したがって、これは凡夫の意識上の「為楽願生〈楽のためのゆえに生まれんと願ぜん〉」(楽しいと聞いてそこへ往きたいという願い〈『真宗聖典』237頁参照〉)ではない。「為楽願生」を、衆生の熱望のようにとらえると、そのために「頭燃を灸うがごとく」(『真宗聖典』215頁)に必死に求めても、思うがごとくには成就しない。これを親鸞は、「至心発願」または「至心回向」の「欲生」と見た(『真宗聖典』18頁参照)。これは『観無量寿経』や『阿弥陀経』が呼びかける理想的な清浄世界への願生であり、現世ではその果たる得生は獲得困難であるから、臨終来迎として往生を保証するがごとくに教えられているのである。
親鸞は、本願による凡夫の救済には、如来の回向との値遇(ちぐう)が必要なのだと気づかれた。本願が成就するというだけならば、どうしてもわれら衆生と願成就の功徳との間に距離が残るのである。苦悩する衆生の上に本願が成就し、煩悩のただなかに法蔵願心がはたらき出る。それを衆生が信受するためには、願心自身が衆生へと「回転趣向」することがなければならない。そこには、衆生が徹底的に「極悪深重」であり「虚偽(こぎ)・顛倒(てんどう)」であることの自覚が待たれる。そのことと、無限大悲が回向せざるを得ないこととが、表裏一体なのである。大悲心が苦悩の有情をすてず「回向を首とする」とは、本願が衆生の上に具体的救済を現成せずんばやまないということである。
回向に値遇することによって衆生に成り立つ人生には、煩悩中の「能生清浄願心」を生きるという意欲が与えられるのである。それを金剛の信心の獲得(ぎゃくとく)という。金剛とは、大涅槃を必定(ひつじょう)とすることの譬喩である。この必定は願力の誓う「必然性」である。曇鸞の言う「願力成就」(『入出二門偈』、『真宗聖典』464頁)の必然性である。「願もって力を成し、力もって願を就す」という因果の交互的動的関係である。
この願力成就の必然性を信受する生活は、無明煩悩の流転の生活とは、まったく異質の生活空間を開く。そこに、親鸞は本来的存在へ確定された信念を生きるとは、「欲生心成就」による「正定聚不退転」の位であることを見いだされたのである。
(2016年1月1日)