親鸞仏教センター所長
本多 弘之
(HONDA Hiroyuki)
「金剛の信心」(『真宗聖典』537頁参照)が、貪瞋煩悩(とんじんぼんのう)の生活のただなかに発起するなら、無明煩悩が消失するのか。さにあらず。煩悩の身が生きている限り、凡夫であることは変わらない。「無無明煩悩われらがみにみちみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえず」(『一念多念文意』、『真宗聖典』545頁)と言われるとおりである。この凡夫の事実と、金剛心が開く不退転の風光とは、いかなる関わりにあると了解するべきなのか。
ここに、真実信心を得た凡夫は、単なる流転の情況ではなく「横さまに四流を超断」(『真宗聖典』235頁参照)するという面と、相変わらず生死の凡夫であるという自覚の面とが、重なっているように見られるのである。この重なりを処理できないから、死後に解決を引き延ばすような了解が出てしまうのである。この対立して相容れないような、「流転の闇」と「四流を超えた明るみ」の重なりが成り立つとは、いかなる事態であるのか。こういう問いを出しているけれども、そもそも矛盾する事態が重なっていると考えるのは、どこからその発想が来ているのか。それは、凡夫が自分の能動的体験(竪型発想)において、闇を超えうると考えるところから、矛盾を重なりだと考えてしまっているということではないか。
この重なりの意味を受けとめるには、「横さまに」とあることの意味をしっかりとらえることが大事である。凡夫の無明性を照らし出し、煩悩具足と気づかせるはたらきを、凡夫を超えた真理それ自身からの光だと仰ぐ。そのことを親鸞は「横」という語で、本願力の教えの信心の事態であることを指示しているのである。してみれば、無明の身に気づくことは、願力からの光明のはたらきに出遇うことである。光明海と無明闇は矛盾なのではなく、信心の事実の内容なのである。凡夫であること以外に、願力の摂取を実感できるということはありえない。煩悩具足の自覚こそが、四流を超断させる本願力の信念の事態なのである。凡夫の能動的体験(竪さまの体験)なのではない。願力回向による信心の体験は、二種深信の構造で成り立つということだったのである。
「竪超(しゅちょう)・竪出(しゅしゅつ)」という「たてがた」の発想が、衆生の常識である。この思考方式をひるがえすことが、困難至極なのである。竪の型からは、光と闇は絶対に一致しない。しかし、「横さま」にはたらく本願力は、凡夫の闇に超発的にはたらこうとするのである。これを信受するとき、闇のなかにあって、本願力の「破闇満願(はあんまんがん)」の功徳を感受するのである。横超(おうちょう)が十分に理解できないところに、横出という「他力中の自力」の執念が残存する。だから、ここには未だ「死後往生」の考えがこびりついている、と指摘されるのである。
(2016年2月1日)