親鸞仏教センター

親鸞仏教センター

The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

親鸞仏教センター

The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

公開講座画像

親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 迷妄なる自己自身の成り立ちを、深層意識に阿頼耶(あらや)識を見いだすことを手がかりに、存在論的に解明してきたのが大乗仏道における唯識思想であった。その名の「アーラヤ」とは、一切経験の蔵という意味であり、「蔵」には能蔵・所蔵・執蔵の三義があるとされる。

 その能蔵とは、一切の行為経験を生み出す可能性を蔵していることだと述べた。そこから起こったあらゆる行為(現行)は、行為としては終わるが、その行為がそれをなした人間に経験として何かの結果を残す。その残すはたらきを「熏習(くんじゅう)」と言い、残された結果を「習気(じっけ)」と言う。熏習や習気がどこに起こり、どこに蓄積されるか、という問題に答えるものが「蔵識」である。熏習される場所が阿頼耶識であり、その結果たる習気がそのまま「種子(しゅうじ)」として蓄積されて、次の行為経験の可能性となる。熏習することを能熏と言い、熏習されることを所熏という。能熏・所薰を成り立たせる場所が、阿頼耶識なのである。

 この能所の蔵としての意味は、生命存在の持続を成立させる原理だ、ということであろう。この蔵から一切の行為経験が生まれ(能熏)、その結果の名残が習気としてその蔵に蓄えられる(所熏)。その「現行(げんぎょう)」としての蔵の作用を「阿頼耶識」と呼ぶ。その場所が持続するので、それを「自我」ととらえてしまう作用が付いてくる。その意識を『三十頌』の唯識論(『唯識三十頌』)では「末那(まな)識」と名づけている。末那識が阿頼耶識を自我ととらえるので、「蔵」には主体を自我として執着するという妄念が付帯する。それで阿頼耶識に「執蔵」という意味を加えるのである。そこから、一切のこの世での行為経験には、必然的に迷妄性が付着するということが起こるとされるのである。これによって、「無始よりこのかた、今日今時に至るまで穢悪汚染(えあくわぜん)にして清浄の心なし」(『教行信証』、『真宗聖典』225頁)という流転の歴史が持続すると言うのである。

 仏道にとっての問題は、この一切の迷妄経験を持続する主体に、いかにして仏道の経験が起こりうるか、ということである。一切の経験の根拠たる阿頼耶識に、純粋清浄の行為が起こるはずはないから、仏道の種子が熏習されるはずもない。それにもかかわらず、人間に仏道の事実が伝承することは、どうして可能となるのか。ここに、『摂大乗論』では、仏陀の言葉が「浄法界等流(じょうほっかいとうる)」の教法だから、それを聞法する経験は、まったく新しい経験(新熏)として、清浄の種子が習気となりうるのだ、と言う。それにしても、清浄の言葉を経験することは、やはり本来の可能性にそういう力が具わっていたからではないか。

(2016年11月1日)

最近の投稿を読む

FvrHcwzaMAIvoM-
第257回「存在の故郷」⑫
第257回「存在の故郷」⑫  人間は合理的な生活を追求してきたのであるが、現代のいわゆる先進国の人びとは、はたして生きることに満足が与えられているのであろうか。忙しく情報に振り回されているのが実態なのではないか。そして孤独と憂愁にとりつかれ、不安の生活に沈んでいくことが多いのではないか。  現代社会はこの方向に進展し、資本主義社会において功利性を追い求め、合理性を追求する結果、人間の本来性から遠ざかっていくように思われてならない。その合理性の追求は、真理の基準を人間の理性に置いているのだが、その方向が遂にAIをも生み出し、人間自身の存在の意味すら危ういものとされてきているのである。...
FvrHcwzaMAIvoM-
第256回「存在の故郷」⑪
第256回「存在の故郷」⑪  曇鸞が気づいたことは、第十一願のみではなかった。第十八願の成就を意味づけるために、第二十二願をも加えているのである。第十八願に第十一願・第二十二願を加えることによって、浄土への往生を得た衆生に大乗菩薩道の完成たる仏の位を与え、人間存在の完全満足たる大乗仏教の大涅槃(阿耨多羅三藐三菩提)の成就を与えるのだと、明らかにされたのであった。...
FvrHcwzaMAIvoM-
第255回「存在の故郷」⑩
第255回「存在の故郷」⑩  阿弥陀の本願の中に、「必至滅度の願」(『教行信証』「証巻」、『真宗聖典』〔以下『聖典』〕初版280頁、第二版319頁。親鸞は『無量寿経』の異訳『無量寿如来会』により「証大涅槃の願」〔同前〕とも呼んでいる)が語られている。曇鸞はこの願が、浄土の利益を表す願であると気づいた。それは、曇鸞が仏道の究極目的を見定めながら、自身の挫折体験を通して無量寿経の本願を見直したとき、当然出会うべき事柄であったと言えよう。実は曇鸞がこのことを表現したのは、天親菩薩の『浄土論』解義分の結びにある「速やかに阿耨多羅三藐三菩提(無上菩提)を成就することを得る」(『大正新修大蔵経』第36巻、233頁a。原漢文)という言葉を解釈するためであった。...

テーマ別アーカイブ