親鸞仏教センター

親鸞仏教センター

The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

親鸞仏教センター

The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

公開講座画像

親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 親鸞は、総序において本願名号の教法との値遇について、「遇獲行信 遠慶宿縁〈たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ〉」(『真宗聖典』149頁)と言われている。遇いがたき教えとの出遇い、そして不可思議の因縁による師源空との値遇。本願の信心の獲得には、不可思議の宿縁というべき背景があったのだ、という感激の表現なのである。これは単に親鸞個人に限られる事柄ではない。一切の群生海を代表して、難値難見なる凡夫に与えられる仏法との不可思議の値遇の因縁が表現されているのである。この不可思議の背景の催しなしには、本願力の現行(げんぎょう)に出遇うことはできない。

 この宿縁を蓄積する場所を、唯識論では「阿頼耶識(あらやしき)」(蔵識)と名づけているのである。しかし、この阿頼耶なる根本識は、さしあたって現象する迷妄の意識生活の根拠である。迷妄する意識自体は、六識として現行するのだが、その経験を常に蓄積し、また新たなる意識を生み出す根拠ともなるのが、阿頼耶識なのである。しかし、この迷妄の主体以外に、宗教経験の起こる場所もない。つまり「遠慶」なる迷妄の背景の場所以外には、難値なる宗教体験の起こる可能根拠もないのである。すなわち「宿業」の深い背景を場としてこそ、この困難至極の逆転の体験が起こるというべきなのである。本願の言葉の体験は、決して、いわゆる表層意識の了解で済ますことはできない。宿業の大地に深く染み通ってこそ、凡夫の迷妄を翻転(ほんてん)させずにはおかないのである。

 一方で、『無量寿経』の本願の主体は、法蔵菩薩の名として語り出されている。この願心は「一切衆生」の苦悩を観察して、この苦悩からの根源的な解放を課題として「五劫思惟」し、願心を吟味したと物語られている。この因位の願心の発起を、親鸞は「一如宝海よりかたちをあらわし」て法蔵菩薩と名乗ったと了解される。すなわち、宗教的な願心の発起は、仏陀の果上の大涅槃(一如・法性)から立ち上がり、その果徳を衆生に恵むべく、大乗仏教の物語となっていることを示そうとしているのである。法蔵願心が大悲であるとは、果上の功徳を一切の衆生に平等に恵まずにはおかないという志願であるということである。

 この物語を、自己にとっての救済上の必要不可欠の物語であると受け止めることが、聞法の目的ということになる。「「聞」と言うは、衆生、仏願の生起・本末を聞きて疑心あることなし」と言われる。ここに、この物語の主体が、実は我ら一切衆生の主体たる「阿頼耶識」と成らずにはおかない、という曽我量深の主張が絡んでいるのである。

(2018年3月1日)

最近の投稿を読む

FvrHcwzaMAIvoM-
第257回「存在の故郷」⑫
第257回「存在の故郷」⑫  人間は合理的な生活を追求してきたのであるが、現代のいわゆる先進国の人びとは、はたして生きることに満足が与えられているのであろうか。忙しく情報に振り回されているのが実態なのではないか。そして孤独と憂愁にとりつかれ、不安の生活に沈んでいくことが多いのではないか。  現代社会はこの方向に進展し、資本主義社会において功利性を追い求め、合理性を追求する結果、人間の本来性から遠ざかっていくように思われてならない。その合理性の追求は、真理の基準を人間の理性に置いているのだが、その方向が遂にAIをも生み出し、人間自身の存在の意味すら危ういものとされてきているのである。...
FvrHcwzaMAIvoM-
第256回「存在の故郷」⑪
第256回「存在の故郷」⑪  曇鸞が気づいたことは、第十一願のみではなかった。第十八願の成就を意味づけるために、第二十二願をも加えているのである。第十八願に第十一願・第二十二願を加えることによって、浄土への往生を得た衆生に大乗菩薩道の完成たる仏の位を与え、人間存在の完全満足たる大乗仏教の大涅槃(阿耨多羅三藐三菩提)の成就を与えるのだと、明らかにされたのであった。...
FvrHcwzaMAIvoM-
第255回「存在の故郷」⑩
第255回「存在の故郷」⑩  阿弥陀の本願の中に、「必至滅度の願」(『教行信証』「証巻」、『真宗聖典』〔以下『聖典』〕初版280頁、第二版319頁。親鸞は『無量寿経』の異訳『無量寿如来会』により「証大涅槃の願」〔同前〕とも呼んでいる)が語られている。曇鸞はこの願が、浄土の利益を表す願であると気づいた。それは、曇鸞が仏道の究極目的を見定めながら、自身の挫折体験を通して無量寿経の本願を見直したとき、当然出会うべき事柄であったと言えよう。実は曇鸞がこのことを表現したのは、天親菩薩の『浄土論』解義分の結びにある「速やかに阿耨多羅三藐三菩提(無上菩提)を成就することを得る」(『大正新修大蔵経』第36巻、233頁a。原漢文)という言葉を解釈するためであった。...

テーマ別アーカイブ