親鸞仏教センター所長
本多 弘之
(HONDA Hiroyuki)
法蔵菩薩の大悲心を自己一人がためと感受する信念は、「横超(おうちょう)の菩提心」であると親鸞は宣言する。個人に法蔵願心を受け止める信心が、「横超」であり、自利利他という大乗の菩提心の課題を内に包むというのである。このことを、天親の『浄土論』の「一心」の内容として展開しているのが、次の和讃である。
尽十方の無碍光仏 一心に帰命するをこそ 天親論主のみことには 願作仏心とのべたまえ(『高僧和讃』、『真宗聖典』491頁)
願作仏の心はこれ 度衆生のこころなり 度衆生の心はこれ 利他真実の信心なり(同前)
信心すなわち一心なり 一心すなわち金剛心 金剛心は菩提心 この心すなわち他力なり(同前)
こういうように、一心が「願作仏心」でありすなわち「度衆生心」であるから、「自利利他」を満足する心であり、それがすなわち菩提心であって、それは「他力」であると言う。これは、親鸞による天親の『浄土論』の受け止めなのであるが、もし『浄土論』を文字通りに読もうとするのであれば、一心は「大菩薩」の菩提心であり、それが天親菩薩の意志によるのだとも言えるであろう。しかしそれを曇鸞の『論註』を通せば、次の和讃のようになると親鸞は言う。
論主の一心ととけるをば 曇鸞大師のみことには 煩悩成就のわれらが 他力の信とのべたもう(『高僧和讃』、真宗聖典492〜493頁)
この和讃の背景には、親鸞が『浄土論』の五念門の主体について、深い疑念を感じていたことがあったのではなかろうか。もし、これが自力の菩提心だとするなら、「善男子善女人(ぜんなんしぜんにょにん)」(『真宗聖典』138頁参照)を主語として解義分が始められることには、いかなる意味があるのか。そして、観察門をくぐって五念門行を成就するときに、主語が凡夫たる善男子善女人から「菩薩」の名となって、「巧方便回向(ぎょうほうべんえこう)を成就」(『真宗聖典』143頁参照)すると説かれているのは、どういう事態なのか。そもそもなぜそれに先だって、「尽十方無碍光如来」に帰命するのか。こういう疑難の解決が、曇鸞の教示に出遇うことによって明白に与えられたということと、源空聖人の示してくださった「選択本願の念仏」による凡夫としての救済ということが、重なるのではなかろうか。それによって、煩悩成就の我らに成り立つ真実の信心に、天親の示される「自利利他成就」という課題が見通せたのではなかろうかと思われる。それにしても、次の和讃に出される問題をどう解決しうるのか。
如来の回向に帰入して 願作仏心をうるひとは 自力の回向をすてはてて 利益有情はきわもなし(『真宗聖典』502頁)
この「帰入」の主語が、我ら煩悩成就の凡夫であるのなら、「自力の回向をすてはてて」という信念には、どうやって到達できるというのであろうか。
(2019年6月1日)