親鸞仏教センター

親鸞仏教センター

The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

公開講座画像

親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

第200回「意欲の異質性を自覚せよ、と。―願のままに成就しているとは―③」

 親鸞の自覚は、人間とは「煩悩成就の凡夫」である、とする立場である。決して、衆生は本来仏である、というような楽観的な、いわゆる天台本覚思想などではない。むしろ衆生自身には、成仏の可能性すら無いとする自覚なのである。善導の深信釈(機の深信)にあるように、「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫より已来、常に没し常に流転して、出離の縁あることなし」(『真宗聖典』215頁)と、徹底的に自身の罪悪と愚昧を自覚していくのである。

 だからこそ本願力に依るほかには、無明煩悩を超え出る方法はないと、決定して信受する。その衆生に本願力は、普遍的な誓いを通して「念仏衆生 摂取不捨」(『観無量寿経』、『真宗聖典』105頁)と呼びかけている。確かに原理的にはそうなのだが、それに反逆し、その平等の救いを疑惑して、限りなく自分の力で無明を超え出ようと、愚かにも分別して止まないのが、また凡夫なのである。

 この疑惑を晴らすのは、願力の因縁がいわば背後からささやきかけ、深く存在を震動する地震のように作用して、不思議な事実として「獲信」という事態を発起せしめるのである。親鸞はこの獲信の根拠も本願力の回向成就(本願自体の自己表現)であると言う。しかもその獲信の事実は、煩悩具足の存在において「能発一念喜愛心〈よく一念喜愛の心を発すれば〉」(「正信偈」、『真宗聖典』204頁)として「能発」的に発起する。その発起の「能発」の根拠は、自分自身にはあり得ないから、他力の回向だと言うのである。その願力回向の事件は、かならず五濁のただ中でこそ発起する。決して五濁悪世を避けるような条件を必要とはしない。だから五濁を厭い安楽な場所をこいねがう、「厭離心」や「欣求心」は、自力の思念なのだと見るのである。

 ここにそれまでの浄土教が条件のように語る「厭離穢土 欣求浄土」とは、一線を画する親鸞の「願生浄土」の領解がある。本願が呼びかける「欲生我国」を、如来から衆生への絶対命法であり、その意欲それ自体が如来の表現回向だとまでいわれるのである。

 これに照らして考察するなら、因の願とその成就は、阿弥陀の側からはすでに成就しているのだが、その成就の事実は、衆生に獲信の事実が起こるときに、初めて現実に知られるというわけである。換言すれば、いかに本願が成就していようとも、衆生にはそれが一向に見えない。それはたとえば、「一切衆生悉有仏性」という大乗仏教の根本標識は、仏陀からは言えることだが、凡夫からは煩悩で眼が覆われているから見ることはできないのだ、と教えられるのである(『教行信証』「真仏土巻」所引の『涅槃経』、『真宗聖典』312頁参照)。

(2020年2月1日)

最近の投稿を読む

FvrHcwzaMAIvoM-
第255回「存在の故郷」⑩
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第255回「存在の故郷」⑩  阿弥陀の本願の中に、「必至滅度の願」(『教行信証』「証巻」、『真宗聖典』〔以下『聖典』〕初版280頁、第二版319頁。親鸞は『無量寿経』の異訳『無量寿如来会』により「証大涅槃の願」〔同...
FvrHcwzaMAIvoM-
第254回「存在の故郷」⑨
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第254回「存在の故郷」⑨  衆生の本来性である「一如」・「大涅槃」は、釈尊の体験における「無我」を表現したことに相違ない。その無我が衆生の本来有るべきあり方ということである。しかしそのあり方を求める衆生は、その意...
FvrHcwzaMAIvoM-
第253回「存在の故郷」⑧
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第253回「存在の故郷」⑧  この難信の課題が起こってきたのは、仏陀が衆生を無我の菩提に導こうとするそのとき、生きている釈尊を人間の模範として見ている衆生の眼に根本的な誤解があったからではないか。釈尊が入滅せんとす...

テーマ別アーカイブ