親鸞仏教センター所長
本多 弘之
(HONDA Hiroyuki)
親鸞による本願の受け止めとしての信心は、「本願を信受するは、前念命終なり。即得往生は後念即生なり」(『愚禿鈔』、『真宗聖典』430頁)に、見事に結実している。その背景には、『教行信証』「信巻」の厳密な内省的考察があることは言をまたない。真実信心の発起する根本原因を、第十八願にあると見定めた親鸞は、それに対応する機の願(第十九・二十願)によって、「化身土巻」の内容を考察していかれた。その発想の気づきは、願自身を表現している「言葉」の重視とその熟察からきていると思われる。
その証拠と言うべきは、それぞれの願を立てて考察を進めるについて、願名を確認していることである。その時にそれぞれの願名を表現している言葉を列挙するという方法をとっている。その列挙の次第を挙げてみよう。
第十九願については、「修諸功徳の願」、「臨終現前の願」、「現前導生の願」、「来迎引接の願」と並べて、最後に「至心発願の願」と押さえている(『真宗聖典』326〜327頁参照)。
第二十願については、「植諸徳本の願」、「係念定生の願」、「不果遂者の願」と並べて、「至心回向の願」と結んでいる(『真宗聖典』347頁参照)。
それに対して、第十八願の場合には、まったく異なる扱いをしている。まずは、「念仏往生の願」と出して、「この大願を選択本願と名づく」(『真宗聖典』211頁)と、師・源空から伝承された願名を掲げている。そして、「本願三心の願」の名を出し、「至心信楽の願」と言った後に「往相信心の願」と結んでいる(同前参照)。
第十八願についてこういう扱いをするのは、法蔵願心が十方衆生に「至心に欲生せよ」と呼びかけるに当たって、他の機の願には,欲生する条件とでも言うべき条項が並べられているのだが、この第十八願には何の条件も立てずに、直接「至心に欲生せよ」と呼びかけているからである。この願を「根本本願」であると見立ててきた浄土教の伝統は、唐の善導において見事に花開いたのであろう。善導の二河の譬喩に表された表現は次の様である。「汝一心に正念にして直ちに来たれ、我よく汝を護らん」(『真宗聖典』220頁)。
この「汝」とは、浄土に願生する行者であり、「我」とは浄土の主たる「阿弥陀如来」である。この「一心に正念にして直ちに来たれ」こそ、大悲の本願が行者に呼びかけてやまない勅命としての「欲生」する心であると、親鸞は読み取ったのである。
そして、「この大願を選択本願と名づく」とは、異訳の〈無量寿経〉が法蔵菩薩の本願発起の仕事を「選択」であると語っているところを、源空が特に選び取られたことに由来するものである。
(2020年9月1日)