親鸞仏教センター所長
本多 弘之
(HONDA Hiroyuki)
本願を聞くということは、有限の我らが無限それ自身を、有限化しようとすることではないか。これは、実は不可能なことを試みようとすることだといえよう。この限界を教えようと、経典は「難中之難 無過此難〈難きが中に難し、これに過ぎて難きことなし〉」(『無量寿経』、『真宗聖典』87頁)と語り、親鸞も「正信偈」で、信楽し受持することは、「難中之難無過此〈難の中の難、これに過ぎたるはなし〉」(『真宗聖典』205頁)と押さえておられるのである。
この難は「困難」で難しいというよりも、「不可能」を教えているのである。この難こそ、本願が法蔵菩薩に「兆載永劫」の修行を課してでも、かならず超えさせようとする課題なのである。であるから、有限の側の努力を「自力」というなら、この願いは「他力」として無限の側からの、大悲としての営みなのである。それで、衆生の側には「自力無功」の自覚を必要不可欠の要件として教えるのである。
この自力の執心は、我ら有限の思索しかできない身には、あらゆる分野においてしつこく残存する。その思考方法を根底から払うための親鸞の営みが、「信巻」における試みであり、なかでも「横超断四流」釈であろうかと思う。ここで親鸞は信心の位でありながら、本願力に信順するなら「四流を断つ」ことができると宣言している。煩悩の生死を信心の内実としながら(機の深信)、「断つ」ことができるというのである。これを我ら凡夫は、どう了解すべきなのであろうか。
そもそも凡夫とは、この生死のいのちが尽きるまで、煩悩と共に生きるのだと親鸞は記述しているのではないか。さらに曇鸞の了解によって、「正信偈」に「不断煩悩得涅槃〈煩悩を断ぜずして涅槃を得るなり〉」(『真宗聖典』204頁)とも述べている。善導「十四行偈」(『観無量寿経疏』)で「横超断四流〈横に四流を超断し〉」(『真宗聖典』146頁)とあるからといって、それをそのまま取り上げてよいのだろうか。
この「横超」を「信巻」に取り上げる親鸞は(『真宗聖典』243頁参照)、「竪超・竪出」という対応概念を出している。竪とは、いわば人間の常識的発想であろう。自分で一生懸命に努力するとか、必死になってもがくあり様の形象化なのであろう。それに対して横とは、一般的には非常識な生き様、すなわち依頼心が強く、「横着」で「横柄」な態度を示す文字である。
この「横」という概念を、人間が究極的な救済を求めるについて、あえて取り出して常識的発想の方向転換を迫っているのが、『大無量寿経』の教えなのである。だから親鸞は、「横」とは「本願力」を表すと定義する。したがって「横超断四流」の「断」は、煩悩に悩まされる衆生に、本願力が無碍(むげ)のいのちを与えようとする作用を表すのだ、と見るべきであろう。この本願の作用によって、無明の黒闇を生きる衆生に開かれる明るみこそ、自力無功の自覚に賜る信心だということなのである。
(2021年5月1日)