親鸞仏教センター

親鸞仏教センター

The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

親鸞仏教センター

The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

公開講座画像

親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

第229回「悲しみを秘めた讃嘆」⑬

 本願によって衆生に開かれる「宗教的実存」とは、いかなる構造として表現し得るものであろうか。その構造解明の手がかりを、横と竪という菩提心のありかたから探ってみた。そして我らに開かれる信心の意味に、この世での生き方に対して、超越的で立体的な空間として本願の信仰空間と言うべきありかたが、教えられていることを了解した。

 この信仰空間を我らが信心において獲得するところに、それまでの平面的で日常的な生存に、立体的ともいうべき願心の生活空間が与えられるということである。その宗教的実存を念々に確保することが、「信の一念」として開示された「時の先端」の生存が成り立つことである。この時の先端においては、「時剋の極促」(『真宗聖典』239)と表現された「時」の意味が感得される。この「時の先端」とは、いわゆる時間の経過とか瞬間とかとしていわれるような、刻々に移りゆくこの世の時間ではない。むしろ時を突破した時であり、時の経過を突き抜いて継続する時、すなわち現在に永遠を映す時とでもいうべき時である。こういう時が、超越的に常時に持続することが、本願力との値遇としての「横超」によって成り立つということである。

 こういう時を生きる実存を、本願の行者という。本願の行者には、煩悩具足の凡夫という自覚が常時に付帯している。平面的な生活に感じられる煩悩の闇を突破してくる本願の声なき声は、煩悩の闇を妨げとしない。むしろ闇あればこそ、声が慈悲のはたらきとなり、智慧のささやきともなる。そして闇を照らす光明の明るみにもなって、苦悩の衆生に生きる意味を与えてくるのである。

 こういう信心の時には、一面で苦悩の闇からの解放ということがあり、同時に闇へと生き抜いて行こうとする意欲が発起する面がある。このことを親鸞は、一念の「前・後」として開示した。それは、この世の時間的持続の意味の前後ではない。この世的平面を「竪」(自力)とするなら、「横」(他力)ざまに突き破ってくる願心との出遇いの一念の前後である。この出遇いの時を、「この苦悩の生存に死して、大悲の仏陀の国土に生きる」という「往生」の実存的意味としたのである。

 親鸞が晩年に「悲歎述懐和讃」を作るのは、たとえ信心歓喜の生活であっても、この日常的生活には煩悩の闇が厳然としてのしかかっているからである。にもかかわらず信心の事実は、その闇夜を貫く光明として、感じられてくることを表していく。どこまでも、日常的生活を離れず、願力成就の事実を生きるところに成り立つ信心による立体的空間を語っているのである。(了)

(2022年7月1日)

最近の投稿を読む

FvrHcwzaMAIvoM-
第257回「存在の故郷」⑫
第257回「存在の故郷」⑫  人間は合理的な生活を追求してきたのであるが、現代のいわゆる先進国の人びとは、はたして生きることに満足が与えられているのであろうか。忙しく情報に振り回されているのが実態なのではないか。そして孤独と憂愁にとりつかれ、不安の生活に沈んでいくことが多いのではないか。  現代社会はこの方向に進展し、資本主義社会において功利性を追い求め、合理性を追求する結果、人間の本来性から遠ざかっていくように思われてならない。その合理性の追求は、真理の基準を人間の理性に置いているのだが、その方向が遂にAIをも生み出し、人間自身の存在の意味すら危ういものとされてきているのである。...
FvrHcwzaMAIvoM-
第256回「存在の故郷」⑪
第256回「存在の故郷」⑪  曇鸞が気づいたことは、第十一願のみではなかった。第十八願の成就を意味づけるために、第二十二願をも加えているのである。第十八願に第十一願・第二十二願を加えることによって、浄土への往生を得た衆生に大乗菩薩道の完成たる仏の位を与え、人間存在の完全満足たる大乗仏教の大涅槃(阿耨多羅三藐三菩提)の成就を与えるのだと、明らかにされたのであった。...
FvrHcwzaMAIvoM-
第255回「存在の故郷」⑩
第255回「存在の故郷」⑩  阿弥陀の本願の中に、「必至滅度の願」(『教行信証』「証巻」、『真宗聖典』〔以下『聖典』〕初版280頁、第二版319頁。親鸞は『無量寿経』の異訳『無量寿如来会』により「証大涅槃の願」〔同前〕とも呼んでいる)が語られている。曇鸞はこの願が、浄土の利益を表す願であると気づいた。それは、曇鸞が仏道の究極目的を見定めながら、自身の挫折体験を通して無量寿経の本願を見直したとき、当然出会うべき事柄であったと言えよう。実は曇鸞がこのことを表現したのは、天親菩薩の『浄土論』解義分の結びにある「速やかに阿耨多羅三藐三菩提(無上菩提)を成就することを得る」(『大正新修大蔵経』第36巻、233頁a。原漢文)という言葉を解釈するためであった。...

テーマ別アーカイブ