親鸞仏教センター所長
本多 弘之
(HONDA Hiroyuki)
諸仏の国土とは、大乗仏道の歴史が見出した大いなる法界(大乗無上の菩提の内容)に、僧伽を支えてきた無数の求道者が値遇したことを現わそうとしているのであろう。そこには、果徳の平等性と共に、因位の差異を表している様々の名前によって、諸仏それぞれの因位の過程や求道課題の差異が認められているのである。
『大無量寿経』に説き出される本願の主人公は、法蔵菩薩という名前であるが、その法蔵菩薩の物語は、師である世自在王仏の前で自己の願心を表白し、師仏に証を請うという形をとっている。その願心は、自己の仏国土を建立せんとし、その国土建立のために諸仏の国土の善悪を覩見(とけん)して、その善なるものを選びとり悪なるものを選び捨てて、十方衆生の平等の成仏の方法を五劫に思惟して選択摂取したとされている。
これによって、諸仏の願心に共通する最善の願として、法蔵願心が成就する条件として、諸仏によって証誠讃嘆されること、もし讃嘆称名されないなら正覚を成就しないことが誓われているのである。その誓いは、親鸞によって「諸仏称名の願」と名づけられた第十七願である。この願によって諸仏の因位の願心に共通する願として、阿弥陀の御名を称讃し称名する願が「選択摂取」されたとされているのである。
『無量寿経』下巻の始めに、第十一願・第十七願・第十八願の成就が次第を追って表記されてくることに注目してみると、十方衆生の上に無上仏道(大涅槃)を成就するために、法蔵願心が展開するときに、まず「大涅槃に必ず至る位としての正定聚」(つまり第十一願成就)が成り立つことが語り出されていることがわかる。
そして、そのために、第十七願・第十八願の成就が表記されているのである。この展開に気づいた親鸞は、『無量寿経』の表す衆生救済の道筋を、本願の語る内容に添って、教・行・信・証という展開を見てとったのである。
この本願の道筋に触れた龍樹菩薩や天親菩薩の表現を、その後の求道者たちは、仏説に随順し、自己の問題意識によって仏説を受け止め直しながら歩んだ方々の指標として見ているのである。この受け止めにおいて、阿弥陀の諸仏称名の願を見るならば、阿弥陀が自分が正覚を成就するには、諸仏に称名し証明してもらいたいという願いに賛同することにおいて諸仏も自己を成就するのだと言うことができよう。これは阿弥陀仏の成り立ちが、諸仏の成り立ちに重なっているということでもある。言い方を変えれば、本願の真実は諸仏が生まれてこそ真実たり得るし、真実は諸仏に依って証明されてこそ歴史の事実となるのだとも言えよう。
(2022年10月1日)