親鸞仏教センター所長
本多 弘之
(HONDA Hiroyuki)
衆生の本来性である「一如」・「大涅槃」は、釈尊の体験における「無我」を表現したことに相違ない。その無我が衆生の本来有るべきあり方ということである。しかしそのあり方を求める衆生は、その意識分別を如何にして無我の状態にすることができるのか。
釈尊滅後の僧伽においては、仏陀の生前の説法を収集することで仏陀を憶念し、仏法を再現しようとしたのであるが、いわゆる小乘の立場では、生ける仏陀の体験そのものを確保できたのは、仏弟子たちの中で十大弟子をはじめとするすぐれた弟子たちであったと信じられてきた。その弟子たちは生前に仏陀釈尊によって、必ずさとりを開くであろうと予言されていたからである。
これが大乗仏教の時代になると一切の求道者への予言として受け止めようということから、不退転とか正定聚という言葉が言い出されてきた。そのことを確信する歩みの展開として、大乗の求道者たちの中に、『華厳経』十地品のような菩薩十地の教えが説き出され、そして龍樹の名で伝えられる十地品の解釈書『十住毘婆沙論』が鳩摩羅什によって中国に翻訳伝達されている。その初地の解釈において、易行不退が言われ、それを曇鸞が取り上げているのである。
『十住毘婆沙論』の場合、それまでの求道心のあり方に立ちながら、その求道心に耐え得ない軟心の菩薩の要求に答えるがごとくに、称名易行が表されている。
このように無我の体験を求め続けた仏道の伝承は、迷いと分別に振り回されながら、衆生からの自力の菩提心を必要条件として、教えていたのである。それに対して、一切衆生の救済を願ってやまない悲願において、阿弥陀如来の浄土のもつはたらきの中に、究極的な衆生の本来帰すべき故郷を表し、それを仏陀のはたらきとして衆生に与えようという願心が、浄土からの呼びかけとして考察されてきた。衆生が本来有限であり、煩悩を脱出できる因縁すらないという視点から、それにもかかわらず一切衆生の菩提への道を開かなければならないという、大いなる慈悲心が阿弥陀の本願力として考察されてきたのである。
この視点を衆生が獲得するためには、長い求道の結果、その道に挫折せざるを得ないという事実を、待たなければならなかった。それを経験したのが中国の六朝時代に四論宗の学匠であった曇鸞なのである。曇鸞の伝記にある仙経に迷ったという事実を、親鸞が和讃や「正信偈」などで取り上げているのは、この事件によってこそ菩提心の挫折をくぐって、大悲による他力の救済が凡夫に自覚されることを得たという、親鸞の確信があったからであろう。
(2024年8月1日)