親鸞仏教センター所長
本多 弘之
(HONDA Hiroyuki)
阿弥陀の本願の中に、「必至滅度の願」(『教行信証』「証巻」、『真宗聖典』〔以下『聖典』〕初版280頁、第二版319頁。親鸞は『無量寿経』の異訳『無量寿如来会』により「証大涅槃の願」〔同前〕とも呼んでいる)が語られている。曇鸞はこの願が、浄土の利益を表す願であると気づいた。それは、曇鸞が仏道の究極目的を見定めながら、自身の挫折体験を通して無量寿経の本願を見直したとき、当然出会うべき事柄であったと言えよう。実は曇鸞がこのことを表現したのは、天親菩薩の『浄土論』解義分の結びにある「速やかに阿耨多羅三藐三菩提(無上菩提)を成就することを得る」(『大正新修大蔵経』第36巻、233頁a。原漢文)という言葉を解釈するためであった。
阿弥陀の因位法蔵菩薩の願心には、様々な求道心の要求が網羅的に包括されているのであるが、その中で願心の中心でもあり、願心の根幹とも言うべき事柄を、この言葉の解釈において明らかにしているのである。そのために三願(第十八願・第十一願・第二十二願)を取り上げ、それらによって無上菩提が速やかに成就する、すなわち仏道の根本たる大菩提心を成就することができるとしているのである。つまり、因位の本願の課題が、一切衆生を平等に包んで衆生の本来性たる一如・無我の生命を自覚させようとすることにある、と見ているのである。
人間が無始以来、無明煩悩の闇のなかにあったとは、仏教の見いだした人間存在の事実である。その人間が無明の闇を晴らそうとして求道心に立ち上がるとき、その闇の深さと重くのしかかる煩悩に悪戦苦闘することになる。この人間の存在自身の深みから来る罪悪性の闇の深さは、自己の有限なる努力たる難行苦行で拭い去ることなど到底できないのである。
仏陀釈尊の命がけであった六年に及ぶ難行苦行も、その甲斐無く苦悩の闇から脱出することはできなかったと伝えられている。しかしこの難行苦行によって存在の闇から脱出しようという志願は、繰り返して菩提心を成就しようとする求道者達を突き動かしてきた。それが無駄にならざるをえないことが、大乗仏教の運動の中で広く共感され、そこから菩提心の問いが大悲の本願を呼び起こすこととなっていったのではないかと拝察される。法蔵願心の発起は、五劫思惟という不可思議の時間を通し、兆載永劫の修行という無限の努力の形で語り伝えられてきているからである。
本願が語り継がれるようになったとき、法蔵願心はあらゆる衆生に仏道を成就せしめて究極の存在の根源たる大涅槃を施与しようとする願を立て、それが成就することをもって、阿弥陀仏の名も成り立つのだと、了解されてきたのである。
(2024年11月1日)