親鸞仏教センター

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The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

第256回「存在の故郷」⑪

 曇鸞が気づいたことは、第十一願のみではなかった。第十八願の成就を意味づけるために、第二十二願をも加えているのである。第十八願に第十一願・第二十二願を加えることによって、浄土への往生を得た衆生に大乗菩薩道の完成たる仏の位を与え、人間存在の完全満足たる大乗仏教の大涅槃(阿耨多羅三藐三菩提)の成就を与えるのだと、明らかにされたのであった。

 曇鸞大師は『浄土論註』において、天親菩薩が語っていることを、衆生が菩薩道を成就するとは、自分が成仏道を成就するとともに、利他すなわち他の衆生にも仏道を成就させることであるとし、浄土と穢土とを往復することで、それが成就するのだと解明されたのであった。

 しかし、愚禿の自覚で法然の説く浄土教に帰した親鸞は、この浄土の利益は大悲の教えの内容であり、その意味において、この利益が徹底的に阿弥陀如来の本願の用(はたら)きであると受け止め、曇鸞の解釈を受けながら、この穢土と浄土の往還の用きを如来の願力の表現として受け止められた。すなわち天親菩薩の説く本願力回向が、「如来の二種回向」として衆生に用くことを示しているのであって、それを衆生は信受するのだとしたのである。

 菩薩道の課題を語る『華厳経』が、菩薩道の締めくくりで「普賢菩薩」の名を出している。「普賢行願品」がそれであるが、その課題が阿弥陀の本願においては第二十二願で語られている。この課題は、願文では「十方の諸仏如来を供養し、恒沙無量の衆生を開化して、無上正真の道を立て」(『無量寿経』上巻、『真宗聖典』〔以下『聖典』〕初版19頁・第二版20頁)る、とされてあり、その願いが阿弥陀の浄土の利益として成り立つのであって、浄土の菩薩には普賢菩薩の行が自(おの)ずから出てくるのだ、と示されている。

 天親菩薩は、『願生偈』で阿弥陀の浄土の菩薩功徳を語るところに、「一念および一時に、普く諸仏の会を照らし、もろもろの群生を利益す」(『聖典』初版137頁・第二版147頁)と語られている。この菩薩の用きを、親鸞は「罪悪生死の凡夫」・「生死罪濁の群萌」たる我らへの呼びかけとして受け止めた。そして浄土から用き出た菩薩とは『無量寿経』の本願を起こす法蔵菩薩である、と信受された。

 それを晩年の仮名聖教『一念多念文意』に、「一如宝海よりかたちをあらわして、法蔵菩薩となのりたまいて、無碍のちかいをおこしたまう」(『聖典』初版543頁・第二版665頁)と表現される。そこに、この一如宝海が『浄土論』の不虚作住持功徳の「功徳大宝海」(『聖典』初版141頁・第二版152頁)に由来することが語られ、浄土の功徳とは、形なき法性・涅槃・一如をかたちのごとくに語る言葉であるとされたのである。

(2024年12月1日)