親鸞仏教センター研究員
長谷川 琢哉
(HASEGAWA Takuya)
現代フランス哲学を研究していた私が、偶然のめぐりあわせによって、井上円了や清沢満之といった明治の仏教者たちの研究をするようになり、数年が経った。そしてふと気づくと、今では親鸞仏教センターの研究員として働くことになっている。その間、多くの人々との出会いや助力があり、私自身感じるところが多々あるが、それについては別の機会に譲りたい。
ここで私が考えたいのは、西洋哲学を学ぶことと明治の哲学を学ぶこととの間にある、どうにもとらえがたいギャップについてである。
フランス哲学を研究していた私は、大学で西洋哲学のテキストを読解するための訓練を受けた。そのとき教わったのは、哲学的なテキストを読むことの核心は、テキストから論理構造を取り出すことにある、というものだった。もちろんこれはある種の理想である。実際のところ、哲学がどれほど厳密な専門用語を用いても、そこには非論理的な価値判断や前提が何かしらのかたちで含まれている。しかしそうは言っても、理屈で語られているその「構造」を取り出すことさえできたら、まずは哲学書を「読めた」と言うことができるはずである。少なくとも私はそのように考えていた。
ところが、明治の仏教者たちのテキストを「読む」場合、それでは済まないことにすぐに気づいた。西洋哲学の理論を論じながらも、そこには別の何かが、論理構造とは別のかたちで表れているのだ。
そもそもテキストとは、さまざまな言葉によって編み込まれ、ひとつの「構造(ストラクチャー)」を形づくるものである。しかし、そのテキストには同時に独特の肌触り、「質感(テクスチャー)」といったものがある。それは文体であったり、テキストからにじみ出てくる著者の人格であったりするのだろうが、かといってそれらに還元しきれるものでもない。私が明治期のテキストを読むときに感じる「質感」は、あるいは歴史や伝統と呼ぶべき何かであるのかもしれない。日本や東アジアの地で、長い時間をかけて混(ま)ざり合った仏教や儒教の考え方、あるいは人々の生活感覚。明治期のテキストからは、そういったものが独特の「質感」としてありありと感じられるのだ。考えてみれば、ごく当たり前のことではある。しかし、それをどのように「読め」ばいいのだろうか。テキストの「構造」の手前で、あるいはその奥底で、肌触りとして感じられる「質感」をいかにしてとらえればいいのだろうか。これが現在の私にとって、ひとつの大きな課題となっている。
(2016年10月1日)