親鸞仏教センター嘱託研究員
飯島 孝良
(IIJIMA Takayoshi)
生来が子ども好きであって、赤ん坊や幼な児を前にすると途端に顔がほころんでしまう。ひとさまの子にもかかわらず、むさぼるようにあやしてすぐさま仲良くなってしまうものだから、口さがない友人からはかしこくも「子どもころがし」の異名を拝している。
一言反論をおゆるしいただけるならば、実際には子どもをあやしているのではなく、こちらがころがされているに過ぎない。あくまで子どもになりきって、肩を並べて夢中に戯れ遊ぶ――そのとき、何ものにも縛られていない生命の根源に触れる思いがしてくる。何ものも書き込まれていないタブラ・ラサ(白紙)として生れ来た子どもは、「無垢」であることの無限の可能性を思い出させてくれるからである。
遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけむ、遊ぶ子どもの声きけば、わが身さえこそ動(ゆる)がるれ
『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』のこの一句は、われわれひとりひとりの実存そのものに思えてならない。すべてが「遊び」「戯れ」だとして、それを純粋無垢に楽しみきる。そうして遊ぶ子どもの「声」に「わが身」も交響して動かされていく、というのである。
日本臨済宗中興の祖・白隠慧鶴(はくいん えかく)〔1685~1786〕の禅画に「布袋携童図」(永青文庫蔵)がある。布袋(ほてい)が傘をさして子どもの手を引いている図柄であり、図の左には賛が付されている。
七ツに成る子がいたひけな事云ふた 人も傘をさすならばわれらもかさをさそうよ
これは狂言『末広がり』にみえる「傘をさすなる春日山、これも神の誓いとて、人が傘をさすなら、我も傘をさそうよ」の句とも重なり、神仏の庇護の下に在ることを暗示するものだと考えられている。そして、神仏から授かる福の象徴である「餅花(御福餅)」を手にした子ども=衆生の呼びかけに応えて、共に仏をたずねていく布袋=白隠の姿が描かれたものであるという(芳澤勝弘『白隠―禅画の世界―』角川ソフィア文庫)。『浄土論』に、「大慈悲をもって一切苦悩の衆生を観察して、応化身(おうけしん)を示して、生死(しょうじ)の園・煩悩の林の中に回入(えにゅう)して、神通(じんずう)に遊戯(ゆげ)し教化地(きょうけじ)に至る」という。菩薩は衆生の迷いと煩悩の現場に入っていき、そこで神通に遊戯して教化する、というのである。子どもと布袋とが遊び戯れるところ、それを白隠は「上求菩提(じょうぐぼだい)、下化衆生(げけしゅじょう)」――悟りを求めるなかで衆生を救いとっていく――と表しているのだろう。
子どもの自由で無邪気な声に触れるとき、我も彼もなく、ただ慈しみが満たしきる、そういう感応道交の有様が「遊戯三昧」ではないだろうか。
(2016年11月1日)