親鸞仏教センター研究員
中村 玲太
(NAKAMURA Ryota)
少々長いが、哲学者・田島正樹氏の「ララビアータ」に投稿された「「全体的」「本来的」」の記事について、「生きる時間」を中心にして紹介したい(主題である「死」と全体性についての刺激的な論考全般については、下記を参照されたい)。
〔http://blog.livedoor.jp/easter1916/archives/52469129.html〕
亡き人が何をもたらしてくれたのかは、すぐにはわからない。生きている間には、それを考えることは難しい。なぜなら、生きている人には、応答し、かかわり続けなければならないからである。/かかわる時間、生きる時間は、互いに積み上げ、紡ぎあう時間であり、何が与えられたのかを考える時間ではない。/意味を考える時間は、亡き人を思う時にやってくる。終わった生を全体としてまとめ上げ、その存在の意味を問い直すこと、その言動を一つのテクストとして読解することは、死後に初めてやってくる。
(「「全体的」「本来的」」より)
ここから展開していき、田島氏は、「それゆえ、人間の言動の(テクストとしての)意味が――つまりは意味として問われる人間存在そのものが、全体的かつ本来的に問われ得るのは、死によって遠く隔てられた他者の存在としてのみである。/それゆえ、愛し合うことは、本来不可能であることがわかる。我々は生きてかかわりあう限り、その存在を互いに全体的に本来的に考えることができないからである」と。
生きて応答し続けるかぎり、「全体的に本来的に考えることができない」――確かにそうなのであろう。しかし、生きる者同士の問題として深刻なことは、そうとは思えないことではないだろうか。我々はつとに他者の一部を存在の全体に見立てて尊び、そして蔑む。「何が与えられたのかを考える時間ではない」かもしれないが、自分にとって相手がどんな存在なのかを確定せずには不安でいられないのが凡夫なのだと思う。それほど全体性が見えない生きる人間存在が不気味なのだとも言える(自他共に)。
しかし、田島氏が言うように、どのように他者の存在をまとめ上げ意味を付しても、決してそれは相手を全体的、本来的に考え得ているわけではない。それを自覚せずに何かの存在全体を一方的に規定するのは、時に暴力的ですらある。
そもそも愛情をもつとは、相手を一つの意味のなかに閉じ込めず、わかり得ない他者の存在の不気味さに目を開きながら互いに何かを紡ぎ続けようとすることを指すのかもしれない。その「何か」とは一体何か――それは、その意味が開示されるまでそっと待ち続けるしかないものなのであろう。
(2017年1月1日)