親鸞仏教センター嘱託研究員
飯島 孝良
(IIJIMA Takayoshi)
縁あって、シカゴ大学で開催される日本研究ワークショップで研究発表する機会を頂戴した。自分が一生のうち、この米国という土地に入ることはついぞないものと考えていた。つい2年前までは、「自分が米国に行くとしたら、それはトランプが大統領になるくらい縁のない話じゃないか」などと軽口を叩いていたのであるが、世の中には往々にして瓢箪から駒が出るような出来事が実現するものである。
ただ、シカゴという都市の名を耳にして、自分の心がいささか動いたのも事実である。シカゴ大学で催されたランチョン・パーティで、先生方や大学院生を前にご挨拶したとき、不意に口をついて出たのはこんな文言だった――「この街に来て、私は鈴木大拙と釈宗演の影を追いかけているような気がしています(In Chicago, I feel as if I were following the shadows of D.T. Suzuki and Shaku Soen.)」。
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1893年5月1日、「科学技術の発展と工業への応用」をテーマとして、シカゴ万博が正式に開幕する。視覚芸術宮殿(the Palace of Fine Arts)、水産業館(the Fisheries Building)、発明家のフェリスが建築した大観覧車(the Ferris wheel)など、当時のアメリカ人が英知を結集して建築された会場は「ホワイト・シティ」と命名され、19世紀合衆国の繁栄をアピールするものであった。
この万博に際して開催されたのが、シカゴ万国宗教会議(the World’s Congress of Religions)である。世界中の各宗教・各宗派から数多くが参列したこの会議には、日本仏教では蘆津實全(天台宗)、土宜法龍(真言宗)、八淵蟠龍(浄土真宗)、釈宗演(臨済宗)らが参加する。この宗演の発表原稿を手伝ったのが、誰あろう鈴木大拙である。いわばこの会議は、近代化する物質世界に接した日本仏教界が、キリスト教世界へ仏教の倫理観を伝える好機ととらえた一面がある。
今回、シカゴを訪れるにあたり、その足跡に少しでも接することができればと考えていたが、「ホワイト・シティ」などシカゴ万博の跡地は1894年の大火によりほとんど焼失してしまったという。当時を語る建造物として、わずかに残るのがシカゴ科学産業博物館(Museum of Science and Industry)である。ここに宗演が訪れたかどうかは判然としないが、ミシガン湖畔に荘厳なたたずまいで聳(そび)え立つこの古風な博物館をじっと眺めつつ、120年前にこの街を闊歩(かっぽ)した禅者の影を追い求めたのだった。
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3月中旬にも関わらず、しんしんと雪の降りしきる街並みを眺めながら、決して豊かといえぬ書生のような生活をしていた大拙に思いを馳せる。大拙は、万国宗教会議の終了して間もないシカゴ郊外のラサール(LaSalle)で長らく生活することとなったのである。心身ともに凍えそうになるほど積もっていく雪を、大拙の燃えるような大志は片端から溶かしていったことだろう。
そうした大志は今、日本仏教を研究しようとシカゴ大学に留学している各国の研究者の胸の内でも燃えている――歓待して下さった諸氏の研究にかける熱意は、ときに驚嘆と感激を与えてくれる程のものであった。大正大蔵経を開きながら、密教について熱っぽく語り合ったオランダからの研究者、南条文雄の研究を通して近代仏教を瑞々(みずみず)しい視座から論じているイタリアからの研究者、……シカゴビールを傾けつつ、飽きることなく数時間にわたり語り尽くしたその空間は、氷点下の寒風をものともせぬものであった。
シカゴで万国の宗教研究者と交流し、我々ひとりひとりの心に点されたその「炎」こそ、シカゴから日本へ持ち帰るべき最高の土産となった。
(2018年6月1日)