親鸞仏教センター

親鸞仏教センター

The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

親鸞仏教センター

The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

今との出会い 第195回「おそだて」

親鸞仏教センター嘱託研究員

田村 晃徳

(TAMURA Akinori)

 同じものを見ていても、同じように見ているとは限らない。そのような経験は誰にでもあるだろうが、私は子どもたちと接する中で感じることが多い。特に、私は保育園に勤務しているので、幼い子たちの言葉、考え、そしてまなざしから教えてもらうことがとても多い。


 その中でも特におどろいた出来事があった。それは「子ども報恩講」の絵である。毎年、報恩講の時期には親鸞さまの絵を描いてもらっている。題材はもちろんフリーなので子ども達の感性が反映されるわけだ。私は初めて見たとき、文字どおり絶句した。

 「おそうじするしんらんさま」「せんたくするしんらんさま」「こどもたちとあそぶしんらんさま」「ごはんをたべるしんらんさま」・・・おぉ、生活者!


 そうだよなぁ、お掃除も洗濯もするよなぁと絵を見ながら思う。同時に考えるのは、なぜそのような題名を見て私は驚いたのだろうということだ。一応(?)、親鸞を研究してきたが、一瞬たりとも「親鸞の洗濯の方法―中世の水事情をふまえて」や「親鸞の食生活―特に比叡山時代を中心に」、または「親鸞の幼児教化―お遊戯的教化の誕生」などという論題を思いついたことがあったろうか。ない。

 幅広く学んでいるつもりでいた。視野を狭めないようにと心がけていた。しかし、それは自分の希望であり、思い込みであることを子ども達から教わる。親鸞という人物を見るのは同じでも、瞳に映るものは違うのだろう。子ども達には一人の大人の人として。そして私には研究対象の思想家として。どちらが、「同朋」に近いのかは考えねばならない。


 私は真宗の学びをする中で、大切な言葉にたくさん出会ってきた。その中の一つに「おそだていただいた」がある。これはおそらく自分を育てていただいた、仏縁を有する方々への感謝の思いだろう。そして、何よりも親鸞、釈尊、阿弥陀への感謝の思いがあるかもしれない。けれど、私は身近な子ども達から育てていただいているように思う。


 保育とは、文字をそのまま読めば「育ちを保つ」となる。文字通り、「おそだていただいた」である。「子育て」と「おそだて」の発音が似ているのは偶然以上のものがある。一方が育て、もう一方が育てられるだけという関係はあり得ない。思えば親鸞が「私には弟子は一人もいない」と言えたのも、共に学びあい、育ちあうことを実感していたのだろう。「子ども」ではなく、「ともだち=同朋」と心から見ることができるとき、私の仏教理解もまた変わるのかもしれない。

(2019年8月1日)

最近の投稿を読む

koshibe2025
今との出会い第247回「表現の「自由」の哲学的意味」
研究員執筆のエッセイ 今との出会い あたらしい「今」との出会いがここにあります 今との出会い第247回「表現の「自由」の哲学的意味」 親鸞仏教センター嘱託研究員 越部 良一 (KOSHIBE Ryoichi)...
田村晃徳顔写真
今との出会い第246回「ちゃんと学ぶ」
研究員執筆のエッセイ 今との出会い あたらしい「今」との出会いがここにあります 今との出会い第246回「ちゃんと学ぶ」 親鸞仏教センター嘱託研究員 田村 晃徳 (TAMURA Akinori)  2025年が始まった。私は元日には『歎異抄』を通読することにしている。『歎異抄』を通読することにより、新しい...
菊池弘宣顔写真
今との出会い第245回「今という『時』との出会い」
今との出会い第245回「今という『時』との出会い」 親鸞仏教センター嘱託研究員 菊池 弘宣 (KIKUCHI Hironobu)     「明日ありと 思う心のあだ桜 夜半(よわ)に嵐の 吹かぬものかは」...
繁田
今との出会い第244回「罪と罰と私たち」
研究員執筆のエッセイ 今との出会い 今との出会い第244回「罪と罰と私たち」 親鸞仏教センター嘱託研究員 繁田 真爾 (SHIGETA Shinji)  2023年10月、秋も深まってきたある日。岩手県の盛岡市に出かけた。目当ては、もりおか歴史文化館で開催された企画展「罪と罰:犯罪記録に見る江戸時代の盛岡」。同館前の広場では、赤や黄の丸々としたリンゴが積まれ、物産展でにぎわっていた。マスコミでも紹介され話題を呼んだ企画展に、会期ぎりぎりで何とか滑り込んだ。...

著者別アーカイブ