親鸞仏教センター研究員
藤村 潔
(FUJIMURA Kiyoshi)
日常ふとしたことでイライラすることがある。車の運転で電車の踏み切りにさしかかり、上下線の往来などで5分以上停止している時には、「なぜこんな時に電車の本数が多く通過するのか」と憤りを感じてしまう。ところが、その一方で、今度は自分が駅で電車に乗ろうとする時、遅延などしていると「なぜこんな時に限って電車は来ないのか」と不満をもらしてしまう。よく考えてみると、電車の運行は基本的には常に一定である。ただ異なる点は、私が置かれている場面の条件である。前者は車を運転している時の電車待ち。後者は電車に乗ろうとする時の電車待ちである。どちらも運行に対して不平不満を言う「一時」の自分がある。
仏教では、一瞬の間にあらゆる現象が成立していることを説き明かす。天台教学の中では「同聴異聞」という言葉がある。仏は一音の説法をしているが、聞く者によって聞き(頷き)方が異なるという。言い換えれば、仏は常に同じ声(一音)を発しているが、聴衆は同じ声を聞いているため「平等」である。ところが、衆生がどのように頷いているのか、あるいは理解しているのかに「差別(しゃべつ)」が生じる。だから「不定」(さだまらない)と言われる。つまり、仏の説法には、「平等」と「差別」の両面が同時に成立していると明かすのである。
たとえば、私には3歳の子供がいる。戸籍上、確かに3歳の子であるが、考えてみれば、私も3歳である。なぜなら、「子」が生まれたと同時に「親」も生まれたからである。そのため、私も3歳の親に他ならない。「親子」は同時の成立である。「子」が誕生したことによって、私は「親」という名前を与えられたのだと思っている。よく「子育てが大変だ」と言われるが、これも「親育てが大変だ」と言っているのと同じことである。ある男性が結婚し、子を授かり、「親」として誕生した。つまり、子を育てている自分自身も、実は親として育っている。
日々の生活は何かとすべての現象世界を相対的に捉えていく傾向がある。「親と子は違う」、「大人と子供は違う」と。確かにそう区別した方が生活していく上で、何かと分かり良い。ただし、仏教では刹那生滅を繰り返す一瞬の中に、かけがえのない「一時」があると説き、一瞬一瞬の現象世界は、無数の因果に依って成立しているのである。そのような“同時成立”の現象世界を「諸法実相」というのではないだろうか。この頃、私にはそう思えてしまう。
(2019年11月1日)