親鸞仏教センター嘱託研究員
飯島 孝良
(IIJIMA Takayoshi)
僕の行っていた高校は九段の靖国神社の隣にある。
鉄筋コンクリート五階建ての校舎は、そのころモダンで明るく健康的といわれていたが、僕にとってはそれは、いつも暗く、重苦しく、陰気な感じのする建物であった。
僕は、全くとりえのない生徒であった。……
僕は九段高校という、今はない都立高校に通っていた。ここにいるとき、僕はいわゆる「浮いた」生徒だった。来る日も来る日も打ちひしがれるのは劣等感と違和感、そして孤立感だった。更に始末の悪いことに、大したとりえもないのに、「自分だけは、いずれ世間に打って出ていく何ものかなのではないか」という根拠不明の田舎根性を抱えた、度し難い瘋癲漢だった。そんなくだらない自己矛盾に陥った僕は、学校が終わるといつも足早に九段坂を東へ下り、一目散に神田神保町の古本街へ通った。貧乏学生の数少ない拠り所は、100~200円程度で手に入る岩波文庫や新潮文庫、或いはバラ売りで軒先に並ぶ中央公論社の『世界の名著』だった。
ただ、冒頭の数行には、既視感を覚えた方もおられるかもしれない。というのも、これは小説家の安岡章太郎が自身の中学校時代を回想した「サアカスの馬」(1955年)の冒頭箇所から引用して、その一部表現を改めさせてもらったものだからだ。じつは安岡は、僕の大先輩にあたる。この短編で安岡が示してくれた感傷は、当時の自分と合致する所が多い。
「僕は、教室の中にいるよりは、かえってだれもいない廊下に一人で出ているほうが好きだった。たまたまドアの内側で、先生がおもしろい冗談でも言っているのか、級友たちの「わっ」という笑い声の上がったりするのが気になることはあったけれど……。そんなとき、僕は窓の外に目をやって、やっぱり、(まあいいや、どうだって。)と、つぶやいていた」――そのように回顧される安岡の姿は、やはり孤立と無聊を決め込む同じ年頃の自分と二重写しになっていた。
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そんな高校2年生の9月のことだ。ぼんやりとテレビをつけた夜10時ごろ、ニュース番組は、米国時間午前9時ころのニューヨークを中継していた。どういうわけか、ワールドトレードセンタービルが真ん中あたりからもうもうと煙を上げている。何かの火事だろうか、と推察する間もなく、突如として画面の真横から大型ジェット機が飛び込み、巨大な爆音をあげた。茫然とした自分を前に、双子の摩天楼はあっけなく崩壊していくのだった。それはまさに、歴史上でも類を見ぬ凄惨な「滅び」の光景のはずだった。
だが、当時の自分には、それは全く現実とはかけ離れた、ハリウッド映画のような場面に思われてならなかった。そして、ただひたすらに虚無感に呑み込まれ、濁流のような世界情勢をこれっぽっちも把握していない無力感に打ちひしがれるばかりだった。いや、そんな印象を明確に自覚しさえできないほど、「新世紀」の幕開けは僕に己の無知と混乱と矛盾を突き付けてきたのだった。
西田幾多郎の『善の研究』(1911)を手に取ったのは、「9.11」と前後した頃だったと記憶している。あのテロがきっかけというわけではなかったが、何かが僕をこの本へと導いた。どういうわけか、一晩で一気に読みきってしまったのだった。とはいえ、内容が理解できたわけがない。とにかく、興奮するままにページを繰って、「ここには、何かがある!」という電撃が身体を貫いた。多くの方がたが語る『善の研究』との出逢いを見聞きすると、どうやらこの本はそうしたドラマに我々を巻き込む類の一冊のようだった。御多分に漏れず、何ものも知らず何ものも成し得ていない僕もまた、そのときはじめて「知」の階の前に立つこととなったのかもしれなかった。
その後、西田哲学は自分にとって大きなヒントを与える導き手だった。特に「場所的論理と宗教的世界観」(1945)は、その哲学においてキリスト教と仏教が如何に重要であるかを僕に教えてくれる論文となった。その間、大学と大学院を通じ、キリスト教と仏教を学ぶため、ドストエフスキイや一休を学ぶに至ったのだった(これまで僕が学び舎としてきた河合文化教育研究所については、芦川進一先生の連載エッセイ「ドストエフスキイ研究会」を御参照頂ければと思う)。そうして、気づけば20年が経とうとしている。
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27歳の一休宗純が鴉の鳴き声を聞いて悟ったとき、「二十年前、即今に在り」と自覚したものは、豪機(血気)、嗔恚(怒り)、識情心(分別心)だったという(『狂雲集』545)。それは、一休が20年にわたる修行の日々を「愚」として捉えたようにみえる。そう考えるのも、一休にはまた次のような句もみえるからだ。
我れ、本来、迷道の衆生、
愚迷深き故に、迷いを知らず。
縦(たと)い悟り無きと雖(いえど)も、若(も)し道有らば、
仏果、天然に、立地に成る。
(『狂雲集』395「偶作」)
「迷道の衆生」であるという自覚こそ、己が原点としてきたものであり、そうあり続けるだろうものだ――こうしたことを、一休は我々に端的に示す。そして、2016年夏に親鸞仏教センターに寄せて頂いてから、僕が強く思いを致してきたのは、まさに「愚」ということだった。親鸞以来、真宗のなかで「愚」が如何に問われていたのかに大きな課題をおぼえたのは、ちっぽけでどうしようもない自分に苛まれていた20年前との弛まぬ対話ともいえるように思う。その意味で、西田幾多郎による次のような述懐は、この20年のあいだ、自分が懊悩してきた「道」に関する重要な示しとなっている。
【キリスト教に於いて:引用者注】人間の根柢に堕罪を考へると云ふことは、極めて深い宗教的人生観と云はざるを得ない。既に云つた如く、それは実に我々人間の生命の根本的事実を云ひ表したものでなければならない。人間は神の絶対的自己否定から成立するのである。その根源に於て、永遠に地獄の火に投ぜらるべき運命を有つたものであるのである。浄土真宗に於ても、人間の根本を罪悪に置く。罪悪深重煩悩熾盛の衆生と云ふ。而して唯仏の御名を信ずることによってのみ救はれると云ふのである。仏教に於ては、すべて人間の根本は迷にあると考へられて居ると思ふ。迷は罪悪の根源である。【中略】元来、自力的宗教と云ふものがあるべきでない。それこそ矛盾概念である。仏教者自身も此に誤つて居る。自力他力と云ふも、禅宗と云ひ、浄土真宗と云ひ、大乗仏教として、固、同じ立場に立つて居るものである。その達する所に於て、手を握るもののあることを思はねばならない。
(西田幾多郎「場所的論理と宗教的世界観」)
世界が未曽有の苦難に呑み込まれている2021年、20年前には想像もし得なかった我々の宿命は、容易に解答や解決策が出せるものではない。しかし、そこに混乱して己の無力を歎くだけではなく、自らが本来「迷道の衆生」に外ならないという認識を徹底するところから、これからの「道」を憶うことが出来ないだろうか。そして、何が我々を生かしめているのかを、真に考え抜く契機と出来ないだろうか。我々の生死が、どこまでも摑み難く、矛盾したものであり続ける以上は――。
(2021年2月1日)