親鸞仏教センター研究員
東 真行
(AZUMA Shingyo)
多分… 一人で作っても 同じくらいおいしかった
でも 作ってみようとは思わなかった
地図が頭に入っていても それまで海を見に行こうとは思わなかったように
(ゆざきさかおみ『作りたい女と食べたい女』第8話より)
料理が好きな野本と、食べっぷりが豪快な春日。そんな二人の女性の日常を描いた作品の一場面である。このエピソードで二人は「バケツプリン」なる、かなり大きめのプリンをこしらえ、食事を共にする。その際、春日は心中にて上記のように思いをめぐらせる。
どんな背景があるのか定かではないが、一人で生きるのに手慣れた春日が、他者である野本を自分の人生にすでに招き入れていることに気づき、はっとする瞬間である。
状況としては何気ないが、胸中で起きているのは甚大な出来事にちがいない。それが静かに、そして確かな驚きをもって描写されている。
先月、親鸞フォーラムという催しがあり、登壇された小島慶子氏のこんな話が印象的だった。オーストラリア居住のご家族とビデオ通話するなかで、息子が食事しているのを画面越しに凝視してしまうそうだ。
見つめられる側のご子息が当然「なに」とけむたがる。だから、こう伝えるという。自分の人生にかつては存在しなかったあなたが今ここにこうして存在している。そのことがつくづく不思議なのだと。
先の作品とはまた異なる文脈だが、個人の生のただなかに他者が見出されてくるとは、考えてみれば不可思議な出来事である。
真宗大谷派の僧、信国淳は次のような思索を遺している(以下は、信国淳『無量寿の目覚め』〔樹心社、2005年〕所収の「個人と衆生」を参照)。
私たち一人ひとりはそれぞれがみずからの「身」をもって生存する。それゆえに、他者と身体の別を超え、融け合うことは究極的には不可能である。
しかし、私たちの身は「土」すなわち大地たる世界に支えられており、私たちはこの「土」を介して他者と共に生きていると知ることができる。そして、そこでの「身」はもはや単なる個人ではなく、それこそ仏教が「衆生」と呼びかけてきた存在なのであり、「土」の発見において個人は衆生へと意を転じられるのだ。
そのような気づきの契機を、信国は「思惟」という言葉に読み込む。「思惟」は沈思黙考の意にとどまらず、衆生としての私たちが、この世界に同時に共存することの痛切な感知なのである。
虫をついばむ鳥を見た釈尊の「あわれ、生きものは互いに食み合う」(信国による取意)という実感を仏伝は教える。信国は釈尊のこの述懐をもとに上記の思索を展開しており、事ここに至ると、先に記した春日や小島氏の場合と全く異なる、壮大な文脈である。私たちがあらゆる衆生に思いを致すことなど、滅多にない。とはいえ、眼前の他者の存在が自身の胸中に確固たる位置を占めるという不思議は、そういった思惟に通底する稀有な恵みではないかと私は思う。
実際に誰かにお会いする機会はいまやめっきり減ったが、他者と対面する恩恵についてはこれまでも当然のように数限りなく享受してきた。そのことを今更ながら噛みしめる。対面であろうが画面越しであろうが、人生に現前するほど他者に向き合うことは今も昔も、そもそも極めて稀な出来事なのだ。
尊ばれるべき他者が私たちの人生のただなかに現れるとき、仏説の「浄土」がまさしく私たちの足下に将来しているといえば、あまりに大仰だろうか。しかし、鋼鉄のように堅固な私自身の殻を思えば、全く首肯せざるを得ない。「仏土」が私たちと懸絶すると教示される通りである。
(2021年6月1日)