親鸞仏教センター嘱託研究員
宮部 峻
(MIYABE Takashi)
今でこそ出会うことは少なくなったが、私の言うことにすぐに「わかる」と相槌を打ってくれる人が周りに何人かいた。皮肉屋の私は、「自分が苦労して考えてきたことや悩みに対して、そんなすぐに『わかる』という浅い言葉で済ませるとは何事か」と心の中で絶えず思い、未熟なので、ときに口に出した。もちろん、相手に悪気があったわけではないだろうが。とはいえ、こちらの考えていることは、あちらにそうたやすく理解できるわけはないだろうと思わざるを得ないのもまた事実なのである。そうであるからこそ、ときに「こちら」と「あちら」で分断が生じる。これは何も一対一の関係に限ったものではない。政治やジェンダー、人種をめぐっても「こちら」と「あちら」の分断は見られるし、SNSでも分断は生じている。どうやら「こちら」と「あちら」はわかり得ないようだ。にもかかわらず、さもわかったかのように、双方が互いを語ってしまい、双方はその語りを事実ではないと反発して、ますます分断がエスカレートしてしまうのだろう。
アーリー・ホックシールドという社会学者が『壁の向こうの住人たち』(布施由紀子訳、2018年、岩波書店)という本で、ティーパーティーやトランプ前大統領の支持者にインタビューをして、アメリカ右派の人々が支持する政策の根底にある感情に迫ろうとしている。ホックシールドは、バークレーというアメリカでもリベラルの多い地域に住んでいることもあって、果たして、「壁の向こう」にいる右派の人々は何を心で感じているのか想像しようとした。ホックシールドは、右派の人々が心で感じている物語を「ディープストーリー」と名づけ、それに迫ろうとしている。ホックシールドが立派なのは、ティーパーティー支持者やトランプ支持者の感情を描き出したことに留まらない。決してバークレーという地域に留まることはなく、「壁の向こう」の「あちら」の街へ踏み出そうとしたことである。ホックシールドは、理性に留まらず、理性を揺るがしかねない感情の領域に迫り、深い物語へと迫ろうとしたのである。そして、それを言葉にしようとした。
私たちは「あちら」を理解しているようで、その理解は浅いものであることが多いのかもしれない。「あちら」には、それぞれの感情に支えられた深い物語がある。その深い物語を理性で理解するのは、至極困難であろう。
しかし、それでもなお、私たち——少なくとも私——は、「あちら」のことを頭で理解して言葉で語ろうとすることをやめられないし、やめるつもりもないだろう。身近な生活の領域で分断が生じやすい今だからこそ、「あちら側」に深い共感——ただし、安易な同調ではない——をし、その感情により揺らいだものを頭で理解し、言葉にしていく試みに救いの一手を見出したいのだ。
(2021年12月1日)