親鸞仏教センター嘱託研究員
田村 晃徳
(TAMURA Akinori)
2025年が始まった。私は元日には『歎異抄』を通読することにしている。『歎異抄』を通読することにより、新しい 1年も充実するような気がするからだ。朗読するだけならば40分もあればできる。私にとっての、新年の皮切りである。
『歎異抄』は広く関心を持たれている書物である。ご門徒からも「住職、『歎異抄』の参考書買ったよ」と声をかけていただくことも多い 。親鸞聖人の言葉が届くことほど嬉しいことはない。しかし、大概の場合、次のように言葉が続く。「でも、とても難しくて、読めないね」と。
そのような感想 を抱くのは、ご門徒だけではない。私は昨年から地元の坊守会の要請により、『歎異抄』の講義をはじめることになった。初回の講義の際に、坊守の皆さんに『歎異抄』を学びたいと思った動機を聞いた。それぞれが思いを語る中で、多く聞かれた言葉があった。それは「ちゃんと学ぶ」であった。
「お寺に住んではいるが、『歎異抄』をちゃんと読んだことはない」、「『歎異抄』をきちんと学んだことはないので参加した」、「前から興味があったが、難しくて読めなかった『歎異抄』をちゃんと学んでみたい」というような類いである。
どれもよく分かる率直な願いであり、そこに応えてあげたいとも思う。しかし、その上でやはり気になるのは「ちゃんと学ぶ」の「ちゃんと」とは、何をイメージしているのだろう、という点だ。単語の意味だろうか。それとも、全文読むということだろうか。あるいは、『歎異抄』の思想を理解するということだろうか。答えは幾通りも思い浮かぶが、それでも参加者の声を聞いていて不安になるのは、「私自身はちゃんと『歎異抄』を学んでいるのか」という問いが生まれるからである。
「ちゃんと学ぶ」という言葉 の意味についてはイメージがふくらむ割には、その意味するところを的確に指し示してくれる端的な表現 は見つからない。だが、「ちゃんと」への要求がうまれる理由を考えてみると、「『歎異抄』を体系的に、漏れなく学べる方法があるのではないか」、という思いが──あえていえば誤解も若干──あるように思われる。学校で教科書を読むように、順序だてて知識を得ることが学びであると、私たちの多くは思っているのではないか。
しかし、そのような学びは『歎異抄』、あるいは仏教の生きた学びとなるだろうか。学びに完結はない。学びは常に過程である。『歎異抄』の著者とされる唯円に、親鸞聖人の教えを体系的に残したいという要求はあっただろうか。そうではなく、「耳の底にとどまる 」親鸞聖人の声をくり返し思い出していたのではないか。そこに聞こえてくるのは、固定されたような完結した答えではなく、時の経過と共に、唯円が親鸞聖人の言葉をより深く理解できるようになったこともあったろう。
とはいえ、参加者の「ちゃんと学びたい」という要求にも応えたいとは思う。学びにつながる 指針、つまりキーワード が見つかれば、読解するのに役立つかも知れない。
『歎異抄』を学ぶ指針は何だろう。私は「本願のむねをしる」(第12条)と「わが御身にひきかけて」(後序)だと思う。『歎異抄』は難しい。しかし、唯円は仏教の学びとは「本願のむねをしる」ことだと話している。それならば、『歎異抄』には「本願のむね」がどのように表現されているか という関心を手がかりに読むことはできるだろう。そして、何よりも大切なことは、他人事としてではなく「わが御身にひきかけて」、つまり自分の問題としてどこまで『歎異抄』を読めるかという点ではないだろうか。
繰り返すが、学びは過程である。2025年も同朋とともに、学び続ける年にしたい。
(2024年1月1日)