日本思想史・一橋大学名誉教授
安丸 良夫
(YASUMARU Yoshio)
2016年4月、戦後日本の歴史学において、一つのエポックを切り開いた人物が逝去した。
――安丸良夫。丸山眞男に代表される「近代化論」への批判から歩みを始め、生涯にわたり「民衆思想史」のフィールドを開拓し続けた歴史家である。
本インタビューは、安丸氏が亡くなる前年(2015年6月22日)、氏の自宅を訪問し、「現代と親鸞」という視座のもと聞き取りをしたものである。インタビューにあたっては、当方からの「安丸先生における「親鸞問題」をお聞きしたい」との要望に対し、氏からは「最終的には親鸞と現代のような問題に絞り込みたいのですが、自分の人生史に即した回り道をするのが、ぼくにはやりやすい」という応答とともに、①私の出自と育ち(自分のものの考え方の背景説明)、②歴史研究者としての問題意識の特徴や方法論、③親鸞宗教思想の現代的意義、という三つのテーマが提示された。
当日の聞き取りは約二時間半に及び、①では、研究活動の基点となった「通俗道徳」論※の発想の具体的な契機は、真宗篤信地域である故郷(富山)での生活体験と大本教の研究であったこと、②では、その「通俗道徳」論を出発点にして、百姓一揆(いっき)や自由民権運動など、他のさまざまな問題を展望していったという研究活動の軌跡について語っていただいた。本稿では、それに続けて話された③の報告をする。
なお、掲載にあたっては、ご遺族にご了承いただくとともに、当センターと安丸氏との間を架橋してくださった繁田真爾氏に編集の協力をしていただいた。
(名和 達宣)
【今回はインタビューの後編を掲載、前編はコチラから】
「実践的=惰性態」と「自然法爾」
話は少し飛躍するかもしれませんが、サルトルの哲学の一番基礎的な概念は「実践的=惰性態」です。温暖化の問題でもテロの問題でも、私たちの日常生活の実践というものが一番基礎にあって、ごく平凡な実践の延長線上に、いろんな社会の仕組みというものが成り立っています。それは人間が作り出したものだから、簡単に変えることはできない、抑圧的な指針だと思います。この「実践的=惰性態」という概念の基礎にあるのは、ハイデガーの『存在と時間』における「現存在分析」だと思います。ハイデガー哲学の場合は、個人哲学という側面がかなり強いと思いますが、対してサルトルの場合は、それを社会化して、国家とか教会とか軍隊とか、そういう社会的なものの存在の仕方を、こういう概念から展望していると思うのです。
この「実践的=惰性態」という考え方をすると、我々の日常的なものを踏まえながら、現在の世界の構造の全体をとらえることができます。そういうふうに考えると、この概念は親鸞の思想とある程度接近してくるのではないか。特に「自然法爾(じねんほうに)」という考え方と、かなり近づくのではないかというのが、私の今日お話ししたいと思ったことなのです。
親鸞の思想を一応、「自然法爾」の思想というように考えますと、そこでは悪の必然性ということが根源的な意味をもっていると思います。善悪が宿業である、あるいは業縁であると。親鸞の時代でも現代でも、例えば人を殺すということを、我々は日常的にはすることはないと思います。しかし、よく考えてみれば、人間はいつも人を殺すような存在だとも言える。そういうとらえ方をするためには、全体としてとらえるということが必要だと思うのです。例えば、地球の温暖化ということは、地球のどこかでは国そのものが水没してしまってなくなるほど重大なことで、それは殺人と言えば殺人なわけですけど、我々が普通そのことを殺人として意識することはない。そして人間はだいたい皆、自分は多少悪いところもあるけれども、根本的にはそんなに悪い人間ではない、善人のほうだと思っているわけです。しかし、全体としてとらえてみた場合、我々の日常性のなかに、殺人にしろ、テロにしろ、破壊にしろ、そういう重大な結果をもたらすようなものが含まれているということになります。それがつまり、業縁とか宿縁というものであって、そういうものをとらえるためには、物事を世界全体の連関のなかでとらえなければならないと思うのです。
普通の人が日常生活のなかで考えていますから、殺人のような重大な犯罪があったりすると驚くわけですね。悪というものが現代の日本人にはあまり切実なものとしては経験されたことがない、自分の体験としては経験されたことがないので、他人が突然犯して驚くという、そういう他人事として存在しているわけです。しかし、宿業とか業縁ということを媒介にして考えると、我々のなかにそういう悪に対する不可避性のようなものが深く宿っている。ただ運が良くて、たまたましていないというだけのことで、根本的な悪というものはやはり、我々の日常生活のなかにあるのだという考え方になるのではないでしょうか。
このことはまた、善悪というようなものを単純に二元的に分けて考えるのではなくて、普通の人間のなかにもそういう要素があると考えるべきだということを意味しています。そういう表面的な二元論を避けて、自分たちの実践の意味を世界の全体性の光に照らして考え直せば、悪の根源性ということが、だんだん見えてくるということではないかと思います。その場合、現代ではその問題を考えるために、ある程度具体的な知識が必要だと思うのです。例えば、温暖化というのはどういうメカニズムで行われるのかとか、原発というのはどういうものかとか。ただ、そういう具体的な知識は、それだけを孤立させると、現状維持的で保守的なものになりかねません。そこで、そういう状況を何とか乗り越えるということが必要なので、そのための重要なやり方が、全体のなかで問題を考えるということだと私は思うのです。
ちなみに、戦後歴史学でも親鸞は非常に高く評価されてきました。ただし、これまでの親鸞というのは、一種の社会革命思想家みたいなイメージが強かったように思います。しかし、そういうイメージとは少し次元をずらして考える必要があるわけです。階級とか国家とか搾取とかというようなものは、ある程度、先ほどの「実践的=惰性態」みたいなもので、人間の願望によってすぐになくなるというようなものではない。ものすごく強い力で存在しているのだと思うのです。それは一つの側面だけど、しかし、人間は心のなかにこういうものを超えようとする欲求をもっているのだと思うのです。ただ、そういう人間的な欲求やさまざまな善意は、世界全体の大きな仕組みのなかでは「実践的=惰性態」、つまり、抑圧的な仕組みのなかに流し込まれていきます。
だから、我々の問題の立て方としては、日常生活に基づいていろんな問題が起こっているということを知るとともに、そのためには日常生活からとらわれない、広い知識をもつということが必要だと思うのです。しかし、その知識にも限りがありますから、やはりそこに広い意味での宗教性というか、コスモロジー的なものの見方というものが必要だと思います。コスモロジーというものは、現実の具体的な認識という問題と、主体の価値観というものとが混ざり合ったようなものだと思うのですね。だから、人間は完全に対象化された認識でもなく、主体的な価値観だけでもない、何かそういうものが結びついた存在として生きているわけですから、そういうコスモロジーの立場から眺め直すことで、反省の契機を見つけ出していけると思うのです。
現代のような世の中ですから、我々の日常生活や、表面的な認識からはとらえられないさまざまな問題があるということは認めなければいけない。市場経済とかテロとか国家とか自然現象とか、そういうものは皆、我々の日常経験を超えた大きな力として存在しているわけですから、それに対してリアルに見つめるということは、なかなか難しいことだと思います。しかし、やはり自分がどういうものの見方をしているかということは、そのなかで絶えず問われているのであって、それは、世の中にいろんな問題あるけれども、そういう問題を冷静に見つめていけるようにという促しではないでしょうか。
(文責:親鸞仏教センター)
(前編はコチラ)
安丸 良夫(やすまる よしお)
1934年富山県に生まれる。1953年京都大学文学部史学科入学、1962年京都大学大学院文学研究科(国史学専攻)博士課程単位取得退学。名城大学助教授を経て、一橋大学助教授、同教授。早稲田大学大学院客員教授などを歴任。一橋大学名誉教授。日本思想史専攻。2016年4月4日逝去。
主な著書に『日本の近代化と民衆思想』(青木書店、のち平凡社ライブラリー)、『出口なお』(朝日新聞社、のち岩波現代文庫)、『神々の明治維新』(岩波新書)、『近代天皇像の形成』(岩波書店、のち岩波現代文庫)、『〈方法〉としての思想史』(校倉書房)、『文明化の経験―近代転換期の日本―』(岩波書店)、『安丸良夫集』(全6巻、岩波書店)、『戦後歴史学という経験』(岩波書店)など多数。