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[哲学研究者] 永井 玲衣
呼びかけられる

 遠くから、おーいと呼びかけられることが好きだった。

 おーい、おーい、と声がする。風が顔を吹き付けていて、少し肌寒いと感じるあの日のことだ。西日の傾きがゆっくりと一日が終わることを示していて、放課後の気だるい空気が漂っている。おーい、おーい、とまだ声がする。周りにひとはいなくて、わたしは平坦なゴム製のグラウンドをゆっくり踏みしめて西校舎に向かっている。おーい、おーい。だんだんとその声が、わたしの聞き慣れた声であることが分かってくる。おーい、永井、おーい。わたしの名前が呼ばれる。わたしは振り返って、声のする方を見上げる。友だちが、校舎の3階からわたしに手を振っている。おーい、おーい。

 記憶はそこで曖昧になっている。誰かに探されていたのか、その子がわたしに用があったのかは忘れてしまった。にもかかわらず、それはひどく嬉しかった記憶としてわたしの奥底に潜んでいる。
 誰かがわたしを呼ぶ声。聞こえるか聞こえないかわからないままに、それでもなお、何度も何度も呼びかけるあの声。おーい、おーーーい、というのん気で、切実な呼びかけ。



 哲学対話という奇妙な活動をしている。ある問いについて、ひとびとと考え、聞き合い、対話する。ここで行われるのは「会話」でも「議論」でもない。バラバラの人々と集まり、物事をゆっくりと深めていく時間である。

 ひとびとと共に考える問いは「人間に価値はあるのか」などいかにも哲学的というものもあれば「人間関係はなぜつらいのか」など日常的な悩みのもの、「友だちの人生を生きられないのはなぜ」など、考えてみればふしぎだと思えるものなど、様々である。
 わたしは自治体や学校、美術館や企業などで哲学対話をすることが多いが、ここ数年お寺でも対話を行ってもいる。ちなみに初回は「墓は必要か」という問いで、お坊さんやそのお寺の檀家さん、通りすがりの観光客、近所の人など、色々なひとが集まった。

 哲学対話は真理探究の場だが、急いでわかりやすい「正解」を出したりはしない。勝ち負けを決めたり、「いいこと」を言ったひとがえらいわけでもない。ひとびとは問いの下で平等であり、そこに優劣や権力が持ち込まれないように気が払われる。それは、あくまでこの哲学探究が「対話」であることにとどまろうと努力する試みでもある。

 哲学対話は「哲学」と「対話」の単なる合成語ではない。哲学的であることは、対話的であることだ。探求をするためには、その場が対話的でないと、哲学は育たない。対話に参加するあなたを、わたしたちは尊重する。言葉につまり、言いよどみ、時に沈黙するその時間も、哲学対話は丁寧に扱う。息遣い、誰かの汗のにおい、遠くで聞こえる工事の音、たまにごつんと当たる隣のひとの肘、すべてがその「場」に存在し、対話に参加していることを感じながら、わたしたちは哲学をする。

 新型コロナウイルスの影響で、学校や喫茶店、お寺など、色々な場所でひらかれていた哲学対話は次々と中止になった。輪になって座ることの多い対話は、顔をつきあわせ、互いの身体の近さを感じながら話し合うことがほとんどなので、いちばんの感染症対策は、その場をひらかないことである。
 こうして、多くの会議や研究会と同じように、哲学対話はオンラインで行われることが主流となった。

 オンラインで対話をすることについては、否定的な意見もあるし、同時に可能性を見出す声も聞こえてくる。おそらくその両方なのだろう。身体性を伴わない対話はどこか不安でつながりが希薄に感じられるが、すべてを等し並みにしてくれる画面は、圧迫感や緊張感を軽減してもくれる。休み時間での隣同士での簡単な会話、帰り道を共にしながら、考えそびれたことを語るあの時間はなくなってしまったが、普段参加しづらい状況にあるひとが参加しやすくなったり、より自由な形式での参加が可能になりもした。

 だから、オンラインでの対話は、対面の代替物というよりは、まったく別のものと考えたほうがいいのかもしれない。オンラインによって、対面と比較して何かができなくなってしまったとか、対面が可能になるまでのその場しのぎとかではなくて、また別の新しいコミュニケーションのひとつなのだ。
 わたしも最初は、どうやって対面の対話にオンラインの対話を近づけられるかを考えていたように思う。かつて見知っていた地点からしか、変容したあり方を考えることができなかった。

 まったく目新しいものとして、オンラインでの対話を見つめ直してみるとどうだろう。それでもやっぱり、これまでのやり方と比べてしまうけど、なぜだかふと頭に浮かんだのは、遠くにいる友だちがわたしに呼びかける声だった。



 もしもーし、聞こえますか、と誰かがわたしに呼びかけている。はーい、とわたしが応えるが、相手には聞こえていない。オンラインでのある哲学対話の時のことだ。他のひとたちが、聞こえてますよ、こっちはどうですかと呼びかける。あれ、聞こえていないのかな、という独り言がわたしたちの耳に届く。ちがう、あなたの声は聞こえているけど、わたしたちの声があなたに届かないのだ、とわたしたちは悟って、懸命に声を出す。もしもし!聞こえていますよ!おーい、おーい、聞こえています!わたしたちは相手に聞こえないことを分かっていながら、なぜだか呼びかけている。

 わたしはあの時間が好きだ。おーい、おーいと友だちがわたしの名前を呼んでくれたうれしさをなぜだか思い出す。呼びかけるということだけに集中しているあの瞬間。すぐそばにいないからこそ、声を張り上げて、その人の名前を呼ぶあの時間。
 すぐ近くにいれば、わたしはあなたの肩をそっと叩くことができる。近くに座るだけで、あなたは振り向いてくれる。

 だが、わたしたちはとおくとおく離れている。電波を通して、奇妙な仕方で集っている。だからこそ、わたしたちは言葉であなたにふれなければならない。祈るように、あなたに呼びかける。

 あっ聞こえるようになりました、とあなたが画面の奥で嬉しそうに笑っている。それをわたしたちはよかったねえ、と祝福している。声が届く、ということによろこぶことができる。こっちも聞こえますよ、ああよかった、聞こえますか?聞こえますよ、聞こえますね、とわたしたちは何度も確かめる。

 このとき、「声が届く」という普段見慣れたことがふしぎなことに様変わりする。画面に映るたくさんの人たちの背後には、それぞれの部屋がある。揺れる洗濯物、棚に押し込まれたぬいぐるみ、掃除機をかけるお母さん、横切る猫、少しくすんだ壁紙、走り回る子どもたち。のっぺりとした画面の奥に、パソコンを切ったその後に、ひとびとの生活と、それぞれのはてしなく続く人生がある。

 わたしたちは本当にばらばらで、見知らぬ他者同士だ。あなたがこれまで何をして、何を食べて、何にかなしみ笑ってきたのかをわたしは知らない。そして今後、あなたが何に喜び、何を失って、どんな人になるのかも知ることはない。

 だがあの瞬間だけは、おーい、おーいと互いに呼びかける。あなたの声が聞きたくて、あなたと話したくて、わたしたちは互いに一生懸命に声を届けようとする。一度つながったとしても、通信の関係で、突如としてあなたがいなくなってしまうこともある。不安定になり、一瞬だけ聞き漏らしてしまうこともある。わたしたちの対話の場は、非常に不安定で、奇妙で、もろいのだ。

 本当はオンラインの場でなくたって同じだ。他者と共に考える場は、対話だけでなく議論でも、会話であっても、不安定で奇妙でもろい。しかしオンラインは、そのことがより意識される。そして、普段の場のむずかしさが再び捉え返される契機でもある。

 いや、もっとシンプルに考えてもいい。哲学対話は、ひとびとと考えを問い合いながら考えを深めていく。そこにあるのは、独白的な語りではなく、あなたと共に考える共同的な語りだ。あなたが見知らぬ他者であっても、あなたが必要で、あなたと共に考えたいと思うし、あなたにも必要とされたいと思う。だからやっぱり、あなたに呼びかけられることはうれしい。


 仕事の帰り道、小さな子どもが、遠くの母親におーい、おーーいと声を出しているのを見かけた。母親は少し離れた駅ビルの二階のガラス窓から、穏やかに手を振っている。子どもは隣にいる父親と手をつなぎながら、おーい、おーーいと嬉しそうに飛び跳ねている。 呼びかけるのもまた嬉しいのは、なぜなのだろう。おーい、おーーい。


 

(ながい れい・哲学研究者)
専門は哲学・倫理学。哲学研究と並行して、学校・企業・寺社・美術館・自治体などで哲学対話を幅広く行っている。哲学エッセイの連載なども行う。共著に『ゼロからはじめる哲学対話』(ひつじ書房)など。

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