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[親鸞仏教センター嘱託研究員] 飯島 孝良
テクストとしての宗教を読むということ――「語られた」像の思想史を描出する

 いささか面映ゆいことではあるが、ごく私的な経験談から始めたい。十代の終わり、学問的な気風に接することなく過ごしてきた私にとって、恩師が示して下さった“聖書学”という分野は、ひとつのカルチャーショックであった。聖書学は、聖書にちりばめられた「奇蹟(物語)」や「超自然」を合理主義の下に排し、人間イエスの精神とその時代を出来る限り客観的に描出することに努める営為である。すなわち、イエス自身の言行と思われたものも、福音書の記述と編集の段階で弟子や原始教団の意図や認識によって創出されたものであって、史実そのもののイエスを語るというよりも、記者や編集者それぞれの問題意識を反映した〈像〉と看做すのである。このように「史的イエス」探究を軸とした聖書学は二十世紀に隆盛を極め、古代史学や社会心理学や言語学(言語行為論など)を総合的に踏まえてイエスとその時代を分析する「文学社会学」的聖書学へと結実していった。
 視点を仏教に移すと、イエスのみならず仏教者もまた、史的存在であるとともに「語られる」存在たり得る。その具体例として理解しやすいのは、所謂「宗祖」と称される存在である。法然にせよ日蓮にせよ、「救済者」「超越者」として伝承されることもあれば、とくに近現代では苦悩する「求道者」「人間」として語ることが増加する面もみられる。ただ、こうした多層的な「語り」が「宗祖」に関するものと看做される限りにおいて、その「語り」は宗門内部に留まるものになる。その一方、仏教者の中には、その魅力やインパクトが大きい故に、内部だけではなく外部にも波及し得る存在もある。例えば親鸞は、宗門の内部にも外部にも大きな影響を示したのは論をまたない。あるいは一休などは、臨済宗大徳寺派の「宗祖」というわけではなかったが――いや、それ故に――宗門内部よりもむしろ外部で先んじて多く語られ、一般において逸話が広く伝承して「一休ばなし」が形成されたとも考え得る。 このように、キリスト教にせよ仏教にせよ、「語られた」存在がひとつの文学的営為を惹起してきた。

 この「語られた」像は、宗門における伝承ばかりか広範にわたる文化的意匠として、ときに時代への危機意識を代弁するものともなれば、ときに人生の指標とされもしたのである。「現代にイエス(的な存在)が現れてきたら」と仮定するような芸術作品(例えば遠藤周作の諸作品など)や、一休を取り上げた芸術作品(例えば水上勉の小説など)は、その試みと位置付けられる。

 宗教者に関する「語り」が集積体となって形成した一連の文章とその創出を「テクスト」とし、その特質を分析しようとするならば、この「テクスト」をできる限り主観的な価値判断を排して整理する作業が求められる。それは方法論的に「テクスト批判」と称される学術的な作業と考えられるが、より詳しくは、「タテ」と「ヨコ」に着目してその特質を明らかにする作業と考え得る。この場合の「タテ」とはいわば“時系列的影響関係”への着眼であり、ひとつのテクストが生まれてから直近までにどのように読み継がれてきたのかを分析するものといえる。一方、「ヨコ」とはいわば“同時代的影響関係”への着眼であり、ひとつのテクストが同時期にどれほど多様な読まれ方を引き出して時代認識に影響を与えたのかを検討するものといえる。

 このように、テクストの影響関係を「タテ」と「ヨコ」に着眼して明らかにすることは、いわば「思想史」的作業といえないだろうか。すなわち、テクストから導き出された考えや着想=「思想」が、時系列的ないし同時代的にどう読まれ(続け)てきたのか、そうした点からそのテクストの存在意義を明らかにし得るのではないか。これは聖書学ないし文学社会学にも共通した問題意識であって、「語られた」仏教者の像を分析するうえでも不可欠な視座の筈である。テクストを読む我々は、いわばテクストを通して「語られた」像と対話を求められる。その像がフィクショナルなものであろうとそうでなかろうと、我々はその像がテクストにおいて何を語っているか、虚心坦懐に耳を傾けることがゆるされている。

 こうした「テクスト批判」には主観的な価値判断を差しはさまぬことが大前提の条件であるし、そこにこそ学術性が担保されもしよう。ただし、目の前のテクストが展開する物語や思想の何がしかに触れることで、解釈者自身の「信仰」や「体験」に影響しないとまで言いきれるものだろうか。あるテクストと向きあう際にあらわれる最も素朴な反応は、それが「心震わせる」とか「魅了してくる」といったものである。そうした反応は、「信仰」や「体験」とどれくらいの“距離”があるとみなせるのだろうか――これは、聖書学などのテクスト批判論に接してきた十代の終わりから、私の心に往いては来たり、来たりては去る、非常に複雑な問題である。言い換えれば、テクストというものを本当に客観的に分析することなどあり得るのか――そうしたところまで問いは及ぶものであろう。しかしむしろ、そこにこそ、宗教的テクストの特異性があるのではないか。

 「語られた」ものの集積体としてのテクストを追いかけることには、もうひとつの問いがその根底にある。それは、死に別れた存在が語られることと、そのテクストがどう読まれていくのかという問いである。こうした営みは学術空間に留まらぬものであり、むしろそのテクストとの対話を重ねれば重ねるほど、読む者と「語られた」者との“距離”は近づいてもくるのである。最も親しかった肉親や仲間を喪ったとき、その存在をひとつの像として想起せしめるテクストは、単なる感傷ではない「体験」をもたらす。「語られた」者がテクストを通してこちらに向けてくる「呼び声」に応えるのが「読む」という行為なのだとすれば、それは死した存在と生ける存在とのつながりがまた新たに見出されていく営みとなり得るものでもあるだろう。


 

(いいじま たかよし・親鸞仏教センター嘱託研究員)
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