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研究活動報告
現代と親鸞の研究会
 2004年6月25日、東京ガーデンパレス(文京区)において、明治学院大学教授で、文芸評論家の加藤典洋氏を迎え、「日本の現状と宗教の可能性―超越性と現代の文学をめぐって―」をテーマに「現代と親鸞の研究会」を開催した。
 現代の宗教の課題は、「自力を介した超越的なものへの回路」とは別個の宗教原理を見いだすことにあるという話を、現代の文学が直面している問題をとおして、語っていただいた。ここにその一部を紹介する。(本多雅人)
日本の現状と宗教の可能性

―超越性と現代の文学をめぐって―
文芸評論家 加藤 典洋
■現代の宗教の課題
 1995年のオウム真理教の事件は、超越的なものへの人々の希求を大きく脱臼(だっきゅう)させました。それ以来、宗教的なものは、世間では危険で胡散(うさん)臭いものとなったと思います。しかしこれは、「現代の宗教」に先がないということではなく、オウム真理教的な宗教性に対峙(たいじ)できる、別種の宗教性の原理を、どのように提示できるかが宗教界に問われたということだったと思います。
 オウム真理教的な宗教性を、一言で「自力の努力」、つまり、精神修養とか修行によって超越性の経験へと自分をつなぐ企て、と要約することができます。この「自力の努力」というのはよくわかるし、見えやすい。それで若い人をひきつけたというところがあります。
 これに対する原理のもっとも明確な形は、親鸞の述べた「絶対他力」でしょう。私には、この「絶対他力」の宗教性に現在の困難を超える手がかりがあるという気がしますが、その場合の問題は、「他力の努力」というものが「自力の努力」にくらべ、見えにくいことでしょう。他力における超越性への努力というのは何であるのか。簡単に言えば、それは、何もしないこととどう違うのか。そのあたりのことをはっきりと示すことができ、「自力の努力」とは別種の「他力としての超越的なものへの回路」を示せれば、一つの答えになるでしょうが、これが難しいのです。
 オウム真理教の事件は、同時代の文学のなかにも、「骨折」のような経験として残っています。そして、非常に大きな影響を及ぼしています。そこで、ここではこの「他力の努力」に関して、文学作品がどんなことを考えさせるかをお話してみます。
 このことについて、『小説の未来』(朝日新聞社)に、「このオウムの事件の後、日本の文学と社会とに、ある萎縮が起こった」と書きました。「現世を否定する」、あるいは「彼方(かなた)への欲望に身を委ねる」といった心の動きが、屈折し、萎縮して、同時代の文学の中で身を潜(ひそ)めるようになったということです。このような時代に超越性への希求、つまり宗教性への希求はどう生き延びられるか。「他力の努力」とは、修行とか空中浮遊とか出家とかを介さない、日常性を保持したままでの、あるいは日常性のなかでの、超越性への希求を意味します。この「修行」しない宗教性を、ここで超越性への希求と日常性の感覚の関係の再構築という観点から見直すと、現代小説がいくつかのヒントを提示しています。
■他力の努力
 ―現代文学における「この問い」への応接の姿―

事件による萎縮のもっともはっきりした例は、よしもとばななさんでした。事件に先立つ彼女の長編『アムリタ』では、事故により主人公の人格が「半分」崩壊していることが、主人公に、超越的なことがらがふつうに受けとられることを通じて、日常的なものと共存することのカギになっていて、オウム的に「修行」するのでない宗教性とのふれあいの可能性が示されています。
 超越性と日常性とは、たとえば「山に登る」オウム型宗教でははっきりと対極的なものとなり、「山から下りる」親鸞の妻帯肉食(にくじき)型の在家の宗教性では、共存の形をとります。『アムリタ』では、主人公が半分「壊こわれている」ことが、この共存を可能にする手がかりとなっています。
 また、オウムの事件に触発された『アンダーグラウンド』を受けて書かれた村上春樹の小説『スプートニクの恋人』では、「彼方に行きたい」出家型の恋人と、いつも地上にとどまる在家型の「ぼく」との恋愛が描かれています。この恋人はギリシャの島で卒然(そつぜん)として消えてしまうのですが、最終的に、「超越される」日常性は、「超越する」超越性と、どのように連帯できるのか、ということが、この小説のテーマへと育っていきます。  「自力の努力」というのは、わかりやすい。しかし「他力の努力」とは、身体の努力をしないことが心の努力になる、さらに心の努力をも断念することが他力への開眼になる、そういうことに気づくことですから、このことを考えるのに、説得というのとは別種の回路を必要とします。文学は、説得するのではなくて、自分で迷うのですね。そこにこの主題との親和性があると思います。  吉本隆明さんは、「横超(おうちょう)」とは「如来と人間のあいだの距(へだ)たりの自覚において一挙に跳び超される〈信(しん)〉楽(ぎよう)の在り方」(『最後の親鸞』)だと言っています。私は、これを「日常性から離れずに超越すること」と言ってみたいのですが、これらの小説のなかに、いまいる場所からこの「他力」を介しての宗教性への回路へといたるヒントのようなものが、現れていると思います。  たしかにそこにあるのは、答えではありません。小説には、問いをもって答えを求めるというのとは異なる、問いとの出合い、そして答えへのまなざしがあります。そういうものから、さきほどの「壊れ」の可能性、超越する者と超越されるものの連帯といった主題がつかまえられてきている。そう考えると、これら小説の試みが「他力の努力」と無縁でない所以(ゆえん)も、見えてくるでしょう。
(文責:親鸞仏教センター)
加藤 典洋(かとう のりひろ)
文芸評論家、明治学院大学国際学部教授
1948年、山形県生まれ。東京大学文学部仏文科卒業。国立国会図書館勤務の後、明治学院大学国際学部教授。2005年4月から早稲田大学国際教養学部教授。専攻は現代日本文学。著書に『アメリカの影』(講談社学術文庫)、『敗戦後論』『日本という身体』『この時代の生き方』『テクストから遠く離れて』(以上、講談社)、『加藤典洋の発言』(全3巻、海鳥社)、『可能性としての戦後以後』『言語表現法講義』(以上、岩波書店)、『小説の未来』(朝日新聞社)など多数。また、『アンジャリ』第3号に「予定説と絶対他力」(親鸞仏教センター)を執筆いただいている。
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